« 2015年8月 | トップページ | 2015年10月 »

2015年9月29日 (火)

飛騨槍ヶ岳紀行 Ⅱ

双六小屋から槍ヶ岳山荘までは西鎌尾根を硫黄乗越・左俣乗越・仙丈乗越の鞍部のアップダウンを繰り返す5時間程度の行程です。
問題は山荘から大槍までの高度100mが大渋滞するのが予想されていて、できるだけ早く肩の小屋到着が望まれます。
双六小屋の朝食は4時半ながら先着順なので、お弁当を作ってもらって4時45分にヘッドランプをつけてお隣の樅沢岳に向かいました。
樅沢岳山頂(2,755M)        夜明けの槍ヶ岳
P9210326 P9210338_2
↓ 来た道じゃ               ↑ 行く道ぞ
P9210342 P9210348
硫黄乗越                アップダウンの連続
P9210349 P9210357
槍ヶ岳山頂に到達するには表銀座から東鎌尾根、岩登りのスキルが必要とされる北鎌尾根のほか新穂高コースと裏銀座から双六岳を経由する西鎌尾根、上高地から鎗沢を登る4方向があげられます。

北鎌尾根は我が郷土の加藤文太郎が昭和11年冬に遭難した難コースでも知られています。

なかでも西鎌尾根は北アルプスの北側と西側の笠ヶ岳など眺望もよく、槍穂高連峰に向けて徐々に近づいていくことで魅力あるコースといわれています。

 周囲の山並み
 P9210339
 P9210389_2
距離はさほど長くありませんが、尾根伝いのアップダウンを繰り返しながら登るのは結構厳しいものがあります。
すれ違う登山客が、「鎗からの景色はすばらしいですよ」「きつい行程ですが頑張って!」「朝5時半から登っても山頂には2時間近くかかりましたよ」とエール?を送ってくれます。
千丈乗越                 ミネウスユキソウ                
P9210384_2 P9210333
チングルマ(穂)             イワツメグサ
P9210350 P9210354
           槍ヶ岳山荘(肩の小屋)到着
P9210401 P9210408_2
時折ガスが湧き視界が悪くなる天気でしたが、5時間半かけて槍ヶ岳山荘3,080m到着です。
すぐチェックインですが、お昼前でも行列ができる混雑です。
水とカメラとタオルをサブザックに入れて、さっそく大槍に向かいます。
本来なら高度差100mは30分程度で登れるはずですが、行列は一向に進みません。
多分山頂に登っている人が降りたら、その人数分が最終ハシゴを登るのでしょうが、それにしても進みが遅すぎる感がします。
(その理由は山頂に着いてわかりました)
いざ大槍へ             中腹から小屋を見下ろす
P9210399_4  P9210409
 小鎗も間近             渋滞の列
 P9210410_2     P9210415
               最後のハシゴ
Dsc01078_2 Dsc01080
               山頂」到着
Dsc01088_2 Dsc01098
北鎌尾根から登頂組          北鎌尾根からの最終登り
P9210434 P9210427
登頂記念写真              山頂から肩の小屋
P9210439 P9210432
昨年登った常念岳           南東方向:殺生ヒュッテとヒュッテ大槍
P9210448_2 Dsc01097
辛抱すること2時間と10分、山頂に至ると20人超がめいめい感動に浸っています。
混雑の理由は・・・・・
①記念写真渋滞
1ヶ所しかない山頂の祠の前で山名「槍ヶ岳」看板を手に持って記念写真に時間がかかる。
グループの場合は集合が一枚、あとは個々にスマホで一人写真を撮っている。
②北鎌尾根からの登山者が続々と登ってきている。
急峻で岩場の装備と技術が必要な北鎌尾根からもかってないほど登山者が多い。

山頂にいる人の中でザックを持ちヘルメットをつけ、ロープなど登攀道具類を持っている人がいることに驚かされます。
肩の小屋から並んでいる組と北鎌尾根からの登攀組が山頂で固まっています。
ガスが出て視界がない割に山頂が空くのが遅い原因です。


         緊張する下りのハシゴとクサリ場
P9210451   P9210454  
登りも下りも岩登りの基本「三点確保」で慎重に進めば、難コースでも事故は起きていません。
山頂から途中まで登り下りは別ルートになってはいるものの、待ち時間もあり50分かけて下りました。
降り終えた14時前には昨日に続き「小屋飲み」の始まりです。
山頂から小屋前までの行列にならぶ人達を尻目に、お酒を頂くのは少し申し訳ない気もしますが、大槍を眺めながらの一杯はたまりませんね。
             登頂後余裕の小屋飲み
P9210467 P9210468_2
16時前でも混雑している大槍
P9210460
槍ヶ岳山荘の収容人員は650名、食堂は一度に150人が利用できる巨大小屋でも、この日は超満員。

大食堂                   メインは酢豚
P9210476 P9210479
繁盛する売店               今夜も布団一枚に二人
P9210406 P9210405
夕食を終えて床についたものの、むさ苦しい両隣と肩がふれあうのが気になってなかなか寝付けません。
深夜トイレに起きると、狭さに耐えられず廊下や広間に逃れて寝ている人もあり、うらやましくも感じました。

今日は晴れ時々曇りながら、大槍に登る際にはガスが湧きでて周囲の絶景は望めなかったのが残念でした。
予報では明日は晴れ一色、空には満天の星が明日の好天を約束してくれていました。
 

2015年9月27日 (日)

飛騨槍ヶ岳紀行 Ⅰ

地元の若手と中高年による「チームF1B」も活動を始めて6年になります。
当初はランニングが主で、各市町のマラソン大会参加から駅伝参加・山登りなどアウトドア全般に広がってきました。

山歩きのメイン行事である今年の遠征は槍ヶ岳、5年前は上高地から槍沢を登る上高地ルートを往復しましたが、今回は岐阜県側新穂高温泉から小池新道を登り、双六小屋で一泊、西鎌尾根を通って槍ヶ岳山頂に登ったあと槍ヶ岳山荘で一泊。
三日目は槍ヶ岳と大喰岳の鞍部で日本最高所の峠である飛騨乗越から飛騨沢→右俣谷を下り新穂高温泉に戻る「新穂高コース」を選びました。
 

 新穂高コース:鏡平経由双六小屋(泊)、西鎌尾根経由槍ヶ岳山荘(泊)

 P9200185_2

シルバーウイーク始まりの19日(土)夜但馬を出発、明け方3時過ぎに新穂高温泉に到着するも無料・有料とも駐車場は満杯、なんとか都合して駐車したものの登山口の新穂高登山指導センターまで1時間歩き、登山届けを出し3時40分登山開始です。
駐車場は満車              登山指導センター
P9200182 P9200184
登山口                   スタンバイする荷揚げヘリ
P9200187 P9200188
わさび平小屋              イブキトラノオ
P9200192 P9200190
シシウド                   ミヤマシャジン                
P9200195 P9200206
弓折岳                                          焼岳と雲がかかる乗鞍岳
P9200198_2 P9200233_3
秩父沢の岩場歩き            木道歩き                 
P9200225 Dsc01051
上高地コースでは槍ヶ岳が見えるのが2日目ですが、今回のコースは4時間歩くと槍が顔を見せてくれます。
その後は右手に槍ヶ岳・穂高連峰を左手には抜戸岳・笠ヶ岳、振り返ると南に焼岳とさらに乗鞍岳が望めます。
            鏡池越しに槍・穂連峰
Dsc01053 P9200238_4
 槍穂高連峰の絶好展望地 鏡平山荘近くの鏡池
 P9200242_2
鏡平小屋から弓折岳・双六岳     弓折乗越から鏡平小屋を見下ろす  
P9200254 P9200262
Dsc01065 P9200218

鏡平山荘まで登ると、双六小屋までは少し急な登りも、弓折乗越ではいままでたどってきた道を振り替える余裕も出てきます。
森林限界を過ぎると高木がなく、ハイマツ越しに槍や穂高の峰峰を眺めながら尾根歩きが楽しめます。
森林限界を超えて稜線歩き       双六小屋と鷲羽岳
P9200267 P9200276

双六小屋は双六岳と樅沢岳の鞍部2,600Mに位置し、双六岳、黒部五郎岳、槍ヶ岳、笠ヶ岳、鷲羽岳、雲ノ平への基点として、収容人員200人、テント60張りを受け入れる収容力のある小屋です。
            一泊目の双六小屋
P9200285 P9200315
小屋越しに双六岳           小屋飲みスタート
P9200304_2 P9200289_4
鷲羽岳左に三俣蓮華岳         テント場越しに抜戸岳と笠ヶ岳
P9200280 P9200310
夕食は4時半               天ぷら(ご飯と汁はおかわりOK)
P9200297_2 P9200300
小屋のたそがれ             明日の天気は晴れのち曇り
P9200302 P9200313
新穂高温泉登山口からわさび平小屋、左俣谷添いの小池新道を鏡平小屋経由で8時間かけて双六小屋到着。
双六岳山頂は往復2時間強かかるので当初から予定には入れず、寝場所を確保すると夕食まで小屋飲みスタートです。
缶ビール550円也も高く感じることなく、MUさんとIUさんの二人が頑張ってボッカしてくれた芋焼酎がなんと2.7リットル!!
荷を軽くしたいこともあってコンロで沸かしたお湯でぐいぐい頂きました。

シルバーウイークで連日の好天の予報、予想どおり小屋は満員で布団1枚に枕が二つ並んでいました。
夜通し走って仮眠する間もなく、8時間の長丁場を登り切った疲れと、心地よい酔いとが相まってすぐに眠りにつきました。

 

 

2015年9月19日 (土)

不幸な時代の始まり

自公を中心とする与党は、本日未明に安保法案(戦争法案と置き換えたい)を参議院本会議で可決成立させました。
安倍政府は世論調査で国民の8割が説明不十分、6割が今国会での成立に反対とする中で、8月米国議会でおこなった米国との約束を優先させたのです。

団塊の世代でベトナム反戦や沖縄返還・原水爆禁止の運動を体験したものとして、主に組織動員のデモなどの抗議行動にも参加しましたが、戦争法案を巡る反対運動には廃案を求める学生団体SEALDs奥田氏が国会参考人として述べたがごとく、政党・組合など組織的な動きでなく、市民として個人としての参加意識が特徴的でした。

安倍首相は今朝の記者会見で「今後も国民の理解を得るべく、最大限の努力をしていく」「時がたてば理解がひろがる」と述べていました。
ちょっと待って!! それは法案を成立させる前の必要最低限の話しで、順序が逆でしょう。
衆議院特別委員会の濱田委員長の言葉、「今回のように法案を10本に纏めるには無理がある」、参議院特別委員会の鴻池委員長氏の言葉、「どうしても不備な答弁が目立ったような気がする」。
身内からこんな言葉つい出てしまうほど不備で疑問だらけだったのです。

内閣不信任決議案の賛成討論を聞いていて、共産党志井委員長が具体例を挙げて「平和主義の破壊」「立憲主義破壊」「民主主義否定」という三つの大罪であるとの指摘したのは説得力がありました。
結果として戦争法案強行採決・成立となりましたが、今回で学んだ「市民個々として考え意見を言い行動する」ことは、日本の民主主義にとって大きな一歩となるでしょう。
市民のほか憲法学者はもちろん、政治と距離を置いていた研究者・文化人が反対の声をあげ行動したのも特徴的でした。


さっそく集団違憲訴訟を起こす準備が始められています。
来年の参院選で戦争法案を推し進めた勢力への意思表示も含めて、憲法と平和を守る戦いは続きます。
「不幸な時代の始まり」とともに、憲法と民主主義を守るたたかいの「新しい時代の始まり」としなければなりません。

2015年9月17日 (木)

蘇武岳 1074m 大糠ルート

蘇武岳は豊岡市と香美町村岡区を馬の背のように東西に分けているように見えます。
登るには東側は名色登山口から備前山ルート、万場登山口から大杉山ルート、西側からは大糠神社から大糠ルート、寺河内ルートがあり、変化に富んだルートが整備されています。
いまは通行止めとなっている阿瀬渓谷から金山峠経由のルートも含めて登ったことはあるのですが、西側からの大糠ルートだけは雨にたたられてよい記憶はないので、秋晴れが確認できた14日に久しぶりの一人旅で登ってきました。

案内によると、240mの登山口から1074mの山頂まで標高差約830m、コースタイム登り2時間半、下り1時間半となっています。
大糠神社登山口              案内マップ
P9140054 P9140055_3
コースには今では珍しくなった合目表示、登山道の案内標識や目印テープ、ポイントにはマップと現在地が丁寧に記してあります。
全体としてはよく整備されていて、林道と並行していますが一部重なるくらいで、自然林の
尾根歩きも楽しめます。
アカマツとクヌギ林            合目表示とマップ
P9140065 P9140066
             秋の茸があちこちに
P9140059 P9140069
P9140176   P9140063_2
今年は熊の目撃情報が多く、一人旅には熊よけの鈴が欠かせません。
鹿が食べないイワカガミやアセビが群落を作っていたり、リョウブの皮が食べられたり笹や下草が無くなっていて、山の根がずっと向こうまで見渡せます。
以前は登山道が下草で隠れるので、草を刈っていたそうですが、今では替わりに鹿が刈って?くれています。
リュックの熊鈴           膝にも熊鈴
P9140077   P9140072
食害をうけたリョウブ          登山道にはびこるイワカガミとアセビ
P9140076 P9140085
気持ちのよい尾根歩き          ヤマボウシの実
P9140089 P9140107
展望台                   西方向の案内板
P9140121 P9140122_4
 
展望台から西方向:氷ノ山から鉢伏山・陣鉢山・瀞川山・扇の山・蒲生峠へ 
P9140130
 
展望台から9合目へ           山頂1074m
P9140133 P9140144
 山頂方位と山名盤
 P9140156_4

山頂から北・東方向:三川山から来日岳・矢次山・大岡山と豊岡市街地
P9140145

展望台で基幹林道妙見・蘇武線を利用して車できた神戸人にあっただけで、山中も山頂も誰にも会うことはなく、本日の蘇武岳の人口密度は1.0人でした。
家から車で30分走れば登山口に到着する身近な山で、いろいろなルートが楽しめます。
次はブナの紅葉を求めて、北東側の万場登山口から大杉山ルートを登ることにします。


2015年9月15日 (火)

国勢調査 インターネット回答

5年に一度実施される国勢調査が、「スマート国勢調査」(インターネット回答)が今回から可能となりました。
事前に配布された封筒     利用者情報シート
Scn_0001    Scn_0002

以前と違って留守をすることがほとんどないのですが、初物に興味があったのと調査員への応対が面倒なので、早速利用しました。
時間は5~10分あれば済み、回答後アンケートの記入もありました。
お向かいのインターネット初心者のYさんも、さっそくNETで回答されたと聞きました。
総務省では5200万世帯のうち1000万世帯の回答を見込んでいるようで、この分だと利用はもっと多くなるかも知れません。


「スマート国勢調査」は9月20日が締め切りなのであと5日、お忙しい方や興味がある方はお早めに。

 

2015年9月12日 (土)

阿瀬渓谷植物ハイキング

「神鍋植物ハイキング 春の花 」(5月23日)に続き、秋は「阿瀬渓谷植物ハイキング 」。

兵庫県立人と自然の博物館 と神鍋山野草を愛でる会の共催セミナーが行われました。

案内は、人博主任研究員の高野先生と愛でる会の泉会長です。

今回のテーマは秋の花を楽しむことと鹿食害の現状を知ることです。

 

 オヒガンギボウシとホバリング中の蜂
 Img_3087

 絶滅寸前のサンヨウブシ(トリカブトの仲間)
 Img_3151_2

今回の絶滅危惧種はオヒガンギボウシとサンヨウブシとのこと、とくにサンヨウブシは鹿被害によってまさに絶滅寸前の状態です。
猛毒で知られるトリカブトの仲間がなぜ鹿被害?と疑問でしたが、状況を見て理解できました。
鹿が笹や下草を食べてしまったことで、サンヨウブシが孤立・露出し夏の日照りで葉が焼けてしまっています。 

 フシグロセンノウ

 Img_3142

阿瀬の谷奥には江戸中期の廃坑までは金銀の採掘、その後は炭焼き等で暮らす金山村がありました。
山中の不便さと時代の流れで家が減り続け、昭和37年に最後の一軒が村を離れ廃村となりました。
当時は子供たちの声が響いていたであろう分校跡に立ち、往時を偲びながら住民の気持ちに思いを寄せました。

金山廃村                 金山村の歴史(クリックしてお読みください)                 
Img_3162 Img_3164_3
阿瀬渓谷は多種多様な草花が四季を通じて咲き、秋にはトチの実・オニグルミ・アケビなどの木の実も採取でき、豊かな自然が我々を楽しませてくれます。
一方絶滅寸前のサンヨウブシ(トリカブトの仲間)や既存植物がなくなった後に幅をきかせる耐鹿植物や道路の崩落を見ると問題の深刻さを感じます。

次回は9月22日(火)、大岡山コース、前回の観察で見られなかった見返り草の花が見られるそうです。

 

 

2015年9月11日 (金)

「花摘み爺さん」からの贈り物

P9110077今年の4月に紹介した「花摘み爺さん」から、立派なナシを戴きました。

円山川添いの桜堤の桜が散る頃、梨の白花が開花します。
自家受粉をしない梨は、摘花といって花摘みが欠かせないそうで、無駄な実を付けないことと他品種との受粉をするために花粉を確保することが目的です。

鳥取県を中心に20世紀ナシが有名で、兵庫県北部でも栽培されていますが、農家の高齢化で跡継ぎがなくなり、栽培面積が年々少なくなっているそうです。
苦労して花摘み、受粉、袋かけなど丁寧な作業をされたことで、玉太りもよく美味しく育っています。
「花摘み爺さん」の一年を通じたご苦労に感謝しつつありがたくいただきました。

2015年9月10日 (木)

二度目の槍ヶ岳

地元の若手と中高年による「チームF1B」も活動を始めて6年になります。
当初はランニングが主で、各市町のマラソン大会参加→近くの温泉→なごみの部屋で懇親会のパターンでしたが、駅伝参加・山登りに加え、先日の「コウノトリ チャレンジライド in 豊岡」(自転車)参加も加わりアウトドア全般に広がってきました。

最年長の私は今年からランニングは卒業して山登りに集中することにしています。
山歩きのメイン行事である今年の遠征は槍ヶ岳に決まりました。
前回は上高地から槍沢を登るルートでしたが、今回は岐阜県側新穂高温泉から小池新道を登り、双六小屋で一泊、西鎌尾根を通って槍ヶ岳を目指します。

チームF1Bで昨年常念岳、その前は白山、立山涸沢・奧穂髙岳と百名山に挙げられる山を登りましたが、日本の山で一番存在感があるのが富士山、そして登りたい山のトップに挙げられるのが槍ヶ岳といわれます。
2010年の登頂に続き、二度目の槍になりますが、ルートも違い新しい感動と興奮が得られるのを期待しています。

< 2010年槍ヶ岳 ↓>

大渋滞の大槍          槍ヶ岳山荘越しに笠ヶ岳
P1020774  P1020730
最後のハシゴ場              登頂記念
P1020734 P1020743

 

  

 

 

2015年9月 9日 (水)

伊佐屋菓子店のお菓子 Ⅱ

銅鍋とへら                通い帳(掛け売り記録簿
P1040506_3 P1050128_3

《《《 その他作っていたもの 》》》

◎ねりきり(生菓子),落雁(干菓子)
冠婚葬祭の為に作られる事が多かった。
祝い用に、鶴(白豆を煮た餡をなべに戻し、砂糖と水で戻す。
型にはめたものに、色粉を作って彩色する)、亀、鯛などが
作られた。
法事用に、蓮、大根、椎茸等、その他秋には菊も作られた。
菊は箸を下から挿し、まわしながら切り目を入れる。
黄色く色付けしたものをスノコに通して、花の芯に乗せて
作られた。
これを作る時は、よく「べろべろ」という民謡を歌いながら
作っていたとか。
ちなみに秀子おばさんは観世流の浪曲をよく聞いた。

◎さらし飴
もち米から作った飴。
直径2,3cmのこの飴を口に入れると、口の熱でほろほろと
とけて、水分が加わるとしわしわとなっていく。
昭和1桁の当時で、3個を1銭で売っていた。

◎かち割飴
麦芽糖を1斗缶買ってきて、煮て作る。
最後に水を入れるのがコツだった。
7月末に土居の氏神である川濯(かわすそ)さんにお参りに
来る人によく売れた。
鉄のみでかち割って売るこの飴は、べっ甲飴よりネチネチと
していた。

◎きな粉のねじり飴
〈作り方〉
1、水あめをとろ火で焦がさない様に煮る。
2.熱くした、きな粉を混ぜる。
3.薄く延ばして、堅くならない内に細く切り、両端を持って
  半回転させる。

◎金太郎飴
 言わずと知れた、切っても切っても同じ模様が出てくる飴。

◎カステラ
カステラの流し箱はあったのだが、土地の人の口に合わないのか
店頭に並ぶ事は無かった。残念!

《《《 問屋から取り寄せて売っていたもの 》》》

缶で取り寄せ、計り売りされたもの。
◎菊煎餅
菊の型した生地を、乾く前に柔らかめに半分折り返した煎餅。

◎胡麻煎餅
小麦粉、水、そしておそらく卵を入れてよく練ったものに、煎り胡麻
を入れて作った煎餅。店頭にたくさん吊り下げられた。

◎さざなみ
もち米が入ったような粉でできており、少し塩味だが、雪を被った
程度に砂糖を被っている。
真中に線があって、割る事ができる。

伊佐屋菓子店も含めた手辺村の様子は国府村府市場に生まれ、豊岡で印刷業を営み、昭和21年佐賀県伊万里市へ転居された菅村駅一さんの著書
匂うふるさと 手辺村繁盛記 に書かれています。

伊佐屋三木のblogにも記事にしているので、クリックしてご覧ください。 

匂うふるさと 伊佐屋菓子店 Ⅰ

匂うふるさと 伊佐屋菓子店 Ⅱ

※注

<太字の言葉をクリックしていただければ、それぞれの記事に移ることができ、画面左上の戻るボタン(←)で元の記事に戻ります>

 

 

2015年9月 8日 (火)

伊佐屋菓子店のお菓子 Ⅰ

東京都に住む父の妹である叔母さんが91歳で亡くなりました。
菓子店を営んでいた祖父秀蔵の子供9人の末っ子で、昭和24年に嫁に行くまでの10年間、兄二人の戦死と結核によって病死したもう一人の兄、そして自分の母と父の5人を自宅で見送った苦労人でした。

昭和20年に店を閉めた伊佐屋菓子店を知る生き証人で、2000年に当時の話を聞く機会がありました。
当時甥が纏めてくれたものが出てきたので、2回に分けて記録しておきます。
            
伊佐屋菓子店(虫籠窓にうだつ)    軒下にぶら下がっていた看板
Scn_0001_31_4  P1040530

《《《 伊佐屋の売れ筋・三大商品 》》》

◎松露糖(ショウロトウ)
〈作り方〉
1.こした小豆の餡に少し水飴をよく練る。
2.小さく切ったものを、手で丸める。
3.乾かしたものに、砂糖・ハッカを混ぜて液状にした物をつける。
4.ホイロ
(焙炉)下から炭をたいて、乾かして出来上がり。
  ホイロとは、簀(スノコ)でできた木枠の棚のこと。

ちょっとデベソのような形の、この菓子が大変よく売れたとか。

◎羊羹(ヨウカン)
〈作り方〉
1.寒天をよく溶かす。
2.ビルマから取り寄せた豆(白色でささげまめに似ている)を
  食紅で色をつけよく煮る。(その他材料は不明)
3.【ここがポイント】混ぜ合わせた材料をよく火を通しよく練る。
  すくってみて、材料が垂れるようになったら火を止める。  
4.おおよそ、横26cm×縦75cm×高さ3.5cmのブリキ製の
  流し箱をあらかじめ菜種油に馴染ませておき、材料を入れる。
5.できあがった羊羹は、その都度切って計り売りにし、
  モウソウ竹の皮で包む。
  このモウソウ竹の皮は砂糖と物物交換によって入手し、
  いつもは三つ折りで乾かしてあるが、使うときに濡らして
  広げて使う。
  包み方は、1枚の竹の皮に羊羹を載せる。
  初めに長い方の両端を折り返し、次に残った弧の部分を
  内側に織り込む。
  そして竹の皮でできた紐でぐるっと結び、紐の間に商標を
  表面と裏面に入れる。
  表面は「練り羊羹」と書かれていたものと思われる。
  裏面は「但馬の国 府中 三木精栄堂」と書かれていた。

よく火を通してあるので、カビが来なかったとか。
遠くブラジルやアメリカへ移民していった人達への贈り物として、
届けられたりもした。

飴が1銭で買えるのに対し、羊羹は50銭もする高級品だったが、
秀蔵曾爺さんは時々子供たちに食べさせることを許したとか。
そんな時秀子おばさんは、わざと斜めに包丁を入れ「真っ直ぐに
する為に」ともう一度包丁を入れて、より大きく羊羹をもらうのが
いつもの作戦だった。
もちろん、秀蔵さんはそれがわざとである事は知っていたが、
目をつぶっていたそうだ。

ちなみに秀子おばさん曰く、東京で有名な「とらや」の羊羹が
よく似ていて、とらやの羊羹より美味しかったそうだ。

◎巻き煎餅
〈作り方〉
1、生地を焼く。
2、生地に泡が出てきたら飴を載せる。
3、手早くクルッ巻いて、生地で飴を包み込んだらできあがり。


   

2015年9月 4日 (金)

伊佐屋ファーム 2015秋の陣

お盆を過ぎると夏野菜の片付け、9月の声を聞くと秋冬野菜に取りかかります。
           伊佐屋ファーム全景
P9040068_2P9040069

夏野菜で残っているのは、キュウリ・ナス・オクラ・ピーマン・シシトウ・モロヘイヤだけです。一方、春から育てて秋に収穫するのがサトイモ・サツマイモ・ショウガ・ネギ・セロリ・黒豆・七夕豆です。

これからダイコン・カブ・ニンジンなど根野菜の種を播き、キャベツ・ブロッコリー・ハクサイなど葉物野菜の苗を育て、イチゴ苗を定植し、ニンニク・ラッキョウの種(鱗片)を植えます。
11月になると来年収穫のタマネギの苗を移植し、エンドウの種を播いて一年を締めくくります。

ニンジン・ダイコンの種まき      ハクサイ・レタスの苗作り
P9040063 P9040058
イチゴ苗
P9040065秋冬野菜で特にアブラナ科のものは芽が出たとたん虫との戦いが始まります。
アオムシ・ヨトウムシ・ダイコンサルハムシは特に大敵で、油断すると葉がレース状の惨めな姿になるので気が抜けません。
リタイアして主たる収入は年金、主たる仕事は農業となり、周りからもお百姓が板についたと誉められるようになりました。

足りないものがあるとすれば、農協から配布されるJAのシンボル帽子と下駄代わりの軽トラックでしょうか。

 

 

2015年9月 2日 (水)

もう一つの敗戦記念日

戦後70年を記念していろいろな特集が組まれていますが、終戦(敗戦)記念日として8月15日が中心になっています。
ところが8月15日という日は、前日に録音された天皇による「終戦の詔書」朗読が日本国民向けてラジオ放送された日でしかなく、日本政府がポツダム宣言受諾を英米に回答したのは8月14日とされます。

先日NHKラジオ深夜便でしたか、作家の保阪さんが、『国際的には降伏文書が調印された9月2日が連合国の「戦勝記念日」と設定されている』と言っていました。

当然中国の「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」はこの考え方に基づいていて、翌9月3日に行われます。
もっとも70周年式典が軍事パレードというのは、国内外に強い中国をアピールする政治的意図を持つもので感心できませんね。

国際法上も意味を持つ東京湾の戦艦ミズーリ号上で行われた日本の降伏文書調印式は日本国内ではそれほど重視されないのも不思議です。
8月15日というのは、天皇によるラジオ放送(玉音放送)によるインパクトが大きかったのとその後の政治的な意味づけが関係するのでしょう。

2日の新聞各紙も毎日新聞だけが、一面のコラム「余録」で、取り上げただけでした。

(前略)先の佐藤さんは小紙への寄稿で、海外向けの首相の戦後70年談話は国際基準の終戦日の9月2日に出すべきだと主張していた。翌日に中国が軍事パレードをするならなおさらだとも述べている。今なお諸国の自国中心の歴史認識が行き違う東アジアの戦後70年である(後略)

「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と宣う安倍総理、何故か学校で学ばなかった私達ですが、昭和の歴史を学ぶことでその解を見つけましょう。

« 2015年8月 | トップページ | 2015年10月 »

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

神鍋山野草を愛でる会

道の駅かんなべ高原

お気に入り

伊佐屋三木のblog1

  • 伊佐屋三木のblog1
    2007年4月から2015年5月まで8年間の記録です。 「サイト内検索」にキーワードを入れて検索すると過去記事が見られます。