戦没兵士の手紙 伊佐屋物語
昨日の記事で伯父・叔父の戦死に触れました。
伊佐屋四男 薫 昭和13年 2月23日 北支(中国北部)山西省 保定にて戦死
伊佐屋次男 伊和夫 昭和14年 5月20日 北支(中国北部)河北省 石家荘にて戦死。
(珍しいことに長男は昭和5年、ブラジルに移民として渡っています)
(珍しいことに長男は昭和5年、ブラジルに移民として渡っています)
戦地から妻や父母に宛てた手紙が残っています。
次男でありながら跡を継ぐことになり、愛知県大府で教員をしていた伊和夫伯父の手紙に戦地で詠んだ詩が添えられています。
将校でもあり、反戦と言うほどでもないので軍事郵便の検閲もされなかったのでしょう。。
東洋鬼(トンヤンクイ)、日本鬼子(リーベングイズ)と呼ばれ中国人に怖れ憎まれた日本軍人も個人としては優しく家族思いで非戦の心を持っていたことがわかります。
(避難民)
姑娘(くーにゃん)哀れ 老婆と共に
紅色の夜具を抱えて何処まで逃げる
麦畑ははろばろ雲まで続き
曠野は凍り凩荒ぶ
短き髪も千々に乱れて
さんさんと憂ひの顔にふりかかる
今宵の宿 明日の糧
縁者は遠く 黄昏せまる
心迷ひて後ふり向けば
鼻を鳴らして飼犬続く
日軍迫れば匪徒(フェイトー)散れども
日軍去れば匪徒また来る
痛々し!彼女等の胸に
温かき春の女神の訪れるのは
いついつの日か!!
(子供)
母親に抱かれたる
支那の幼き子供
来々と手をさし向けば
微笑みもて母親は渡しくる
無表情なれど怖れもせずに
まじまじと吾がひげ面を視まもる
笑え笑えとゆすり居れば
妻と共に留守居せる
吾が子偲ばれ
不覚なり 泪頬に溢れんとする
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コメント
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毎年この日はなにかを想いますね。
人それぞれでこの日を迎えます。
投稿: 栄治 | 2016年8月17日 (水) 07時36分
何とも辛い歌です。こんな悲惨な戦争は2度と起こしてはいけませんね。しかし今の日本は、若者が普通に、「戦争もやむを得ず」と口にする世になりました。戦後のデモクラシーの中で育った私たちが望んだ姿からは遠く及びません。何とか「日本からは決して攻められることはない」と世界から信頼される日本に戻すのが私たちの世代の義務と思います。
このためには、憲法第9条を守る以外に他に有効な手段は無いと思います。
尖閣、竹島、北朝鮮が日本の偏狭なナショナリズムを煽る3点セットです。こんなことで、このような国々と同じ低レベルな行動を起こしてははいけません。
先の大戦に対し本心からの反省がない現内閣にとっては、この3点セットを良化させることは殆ど不可能ですが、皮肉なことに内閣の維持に強力な援護になっています。
投稿: 吉田公一 | 2016年8月18日 (木) 10時07分
公ちゃん
この伊和夫伯父は私の母の前夫です。
「吾が子」というのは異父姉で、中国から引き揚げ昭和20年7歳で病没しました。
戦死者の兄弟と結婚するのは、家や家族を守るため当時はよくある話しです。
ただ、父や母は後悔のそぶりもなく幸せな人生を全うしました。
母葬儀の挨拶の一文です『昭和の時代を生きた者として、つらくて悲しい戦争や、二人の子どもに先立たれたこともありましたが、最近は「自分は幸せ者だ」「何も心配なことはない」などと申しておりました』
投稿: izayamiki | 2016年8月18日 (木) 21時23分