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2016年9月10日 (土)

歴史文化遺産講演会 豊岡の二大城

2013年から「ふるさと豊岡再発見の旅 城郭コース」を受講して、4年目の今年も申込みました。
20160910_134232 第1回は「講演会 豊岡の二大城」、講師は但馬城郭研究の第一人者 西尾孝昌氏(山名氏城跡保存会会長)です。
 
豊岡市立歴史博物館では、企画展「知られざる!豊岡の二大城」が開催されています。
あまり聞き慣れない言葉でしたが、豊岡二大城とは出石城と豊岡城を指し、城郭は明治期に壊されていますが、城跡や城下町が残っています。
山上にある山名氏の有子山城と江戸期に整備された山の下の出石城は有名で、何度か勉強したことがありますが、一時間半の講演で印象的だったのは豊岡城と城下町した。
 
1615年の「一国一城令」によって、但馬の城は出石城と決められ、豊岡城は豊岡陣屋とされましたが、室町期の木崎城、織豊期の豊岡城の遺構や城下町が残っています。
城山となる「神武山」には城と館が建てられ、五角形の天守台まで築かれていました。
天守台は昭和中期に豊岡市の貯水タンクが建設され本丸の一部とともに壊されました。
西尾先生による縄張り図や残されている絵図の比較から、小規模ながらも京極家の入部以来、陣屋居館・内郭・外郭や城下町の整備がなされています。
 
また豊岡高校(旧制豊岡中学)がその後、明治初期に遙拝所が置かれ神武山と呼ばれた城山の南に位置していて、江戸期の武家屋敷をこわし内堀を埋めて建てられているいるのがわかります。

  旧制豊岡中学校校舎と神武山(昭和12年、進叔父の卒業アルバム)
  Scn_0001
学んでいた頃は気がつかなかったことですが、校舎を東西に走っている道が屋敷と内堀との境界だったのでしょう。
そういえば、グラウンドやテニスコート・プールも和魂ホールもこの道を隔てて一段下がったところにあります。
これらは内堀外の田んぼを埋め立てられたようです。
在学時もグラウンドから南は、現在家が立ち並ぶ桜町や昭和町などはなく、田んぼが広がっていましたね。
 
     昭和40年頃の豊岡高校全景 (小山譲 画)
  1_4
 
豊岡城については、豊岡藩といっても石高一万石から1万五千石、陣屋とされたこともあってさほど注目されることもなく、二大城といわれてもピンと来ませんでした。
この講演を通じて高校時代に弁当を食べたり、遊んだりして慣れ親しんだ神武山が、一層身近に感じられました。
詳しいことは豊岡市立歴史博物館、企画展「知られざる!豊岡の二大城 」と2012年に発行された小冊子「ぶらり豊岡の城下町」をご覧ください。
 
 

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コメント

この前(夏休み中)息子と国分寺資料館へ行きました。
この催事をされてました。
息子に促され入館料を支払。。。
いい勉強になりました
息子の城好きには困ったものです(笑)

神武山にこんな謂れがあり、校舎、校庭の構図が城の構成に由来すること初めて知りました。神武山といえば、校舎裏の横穴(戦時中の防空壕跡か?)で、授業をさぼった猛者連中が鍋をつついたという言い伝えがあり、笑ってしまった覚えがあります。

明治4年に神武天皇遙拝所が設置されてから、「神武山」と呼ばれるようになったといいます。
豊岡城が置かれた「城山」と呼べば、当時でもわかりやすかったと思います。

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