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2017年4月14日 (金)

婆焼き オトウマツリ

通称「婆焼き」と称され、4月14日(旧暦3月14日)に、松を立て周囲を竹で囲いお鉢を作り、上部に老婆に見立てた人形を縛り付けて、焼き捨てるという珍しい火祭りが行われました。

今もこの伝統を受け継いでいるのは国府地区松岡区だけで、村を二分してそれぞれ隔年で担当しています。

祭りの由来は、1300年頃、但馬(豊岡市高屋)に雅成親王(後鳥羽上皇第四皇子)が流刑となり、その後を追って、雅成親王の妻、幸姫が京の都からやってきました。その時、幸姫は懐妊の身で急に産気づき、この地で王子を生み落としました。しかし、産後のひだちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋まであと何日かかりますか」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて20日はかかる」と答えました。 これを聞いた幸姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。
 その後、毎年洪水が起き、村人を苦しめたため、その霊を祀ったのが始まりと伝えられています。竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるという奇祭です。(但馬の百科事典より)

         松岡婆焼き(2014年撮影)
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1221年の承久の変で鎌倉幕府と後鳥羽上皇が闘い、敗れた朝廷側の雅成親王の但馬配流にまつわる伝説を起源としています。
この政変は鎌倉時代武家政権への上皇方のクーデターで有名ですが、その影響が但馬の地に残り、引き継がれているのは興味深いものです。

春先の気候でこの時期には、強い南風が吹いたり、円山川に水害が多く発生することに対する安全と豊作を願う「火祭り」が、故事を元にした祈りに変わったという説もあります。

かっては上郷・土居・府市場・野々庄・芝の各区でも同様な行事がありましたが、僅かに伊佐屋の住む府市場区が「お塔まつり」として残っていて、我が伊佐屋もその講の一員です。

国府村誌上巻には「頭屋祭(オトウマツリ)」とし、5ページに渡る記述があります。

 

「オトウマツリ」が松岡では「お柱祭り」、上郷では「御祷祭り」、府市場では「お塔まつり」の字を充てています。
それぞれの思いや松を使った鉢や柱の形を「トウ」に置き換えたのでしょう。

私が住んでいる府市場区では、村の有力者が出資をして「お頭田」を所有し、その年貢や売買後の利息で、祭りの経費をまかなっていた記録が残っています。

そんな府市場も11軒の講員では祭りの実施が難しくなり、昭和39年に婆焼きの鉢作りを止め、十二所大権現の軸にお参りし会食する形式で祭りを引き継いできました。

もう一つの婆焼き祭り」 ← 府市場婆焼きはクリックでご覧ください

       府市場婆焼き(お鉢焼き・2004年)
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その後有志の協力も得て1988年に鉢作りを復活させ、以後5年ごとに婆焼きを行ってきたものの、2004年を最後に鉢作りを止める結果となりました。
松岡区以外は講員のみで行ってきた祭り行事を、祭神「十二所大権現」を祀るご当所松岡区を挙げて取り組んできたことが「婆焼き」が今日まで残った理由でしょう。
地域の過疎化と高齢化で、伝統ある祭りそのものの存続が危ぶまれる時代になりました。

 

 

 

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コメント

こういった伝統ある行事は
どうあれ後世に伝えていくべきではないでしょうか。
やはりその村、集落の存続そのものかと。

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