辰鼓楼 平成の大修理
明治4年創建の時計台、但馬國出石の城下町のシンボルとして親しまれた「辰鼓楼-しんころう」のの大修理が計画され、修理前の第1回現場見学会に出かけてきました。
創建から140数年、昭和初期の大修理からも80年以上経っています。
見学に先だって出石振興局の田口さんから歴史の説明、建築士の福岡さんから建物の詳細図をもとに建物の概要と修理工事の説明がありました。
まず、田口さんから・・・・
「辰鼓楼は藩士の登城を告げていた」「辰の刻(午前8時)に太鼓をならし、形が鼓に似ているので辰鼓楼と名付けられた」とういう、結構信じられているガイドネタに対し、「創建の明治4年には出石藩も廃止され藩士もいなかった」「辰は刻(とき)という意味で、辰鼓という言葉は出石藩御用部屋日記にも残されている」との説明に少しびっくり。
・ 明治2年まで約280年間、1日12回鐘で時を告げていた昌念寺にかわって太鼓で刻を知らせるようになった
・ 明治14年、札幌時計台と同年に機械式の時計が設置された(初代オランダ製)
・ 明治27年、機械式の新時計に替わった(二代目)
・ 明治40年、屋根も当初のこけら葺きから瓦葺きに替わった
・ 昭和51年、電気式の時計に替わった(三代目)
福岡建築士さんから・・
・ 外壁は数度張り替えているが、主要な軸組は当初材で、大きな梁などは出石城の廃材が使われている(不要な穴が空いている)
・ 芯柱は塔のように突き抜けていなくて4階床下まで、コンクリート補強された基礎に下に約50cmの空洞があるのは当初は掘立柱だったのが腐食して接ぎ木や補強がなされたとおもわれる
・ 屋根は昭和59年に修理済みなので、基礎と軸組を残して半解体工法でおこない、外壁や4階窓は全面取り替えとなる
・ 基礎のコンクリート補強や鋼製筋交いなどの耐震補強、避雷設備、火災警報設備など耐久性が重視される
その後5人の組に分かれて1階から4階まで見学させてもらいました。
辰鼓楼の中に入ったのは初めて、階段に子どもの落書きがあったりして、昔は男の子の探検場所だったのでしょう。
1階内部 接ぎ木された芯柱と基礎下の穴
機械式時計のゼンマイ ずっしり重い2個の錘(おもり)
落書き 錘をつり下げた穴
4階 電気式時計と鐘
アンプ スピーカー
消防団の半鐘も健在 消防信号ルール
退役した機械式の時計の錘や歯車・鐘、現役の電気式時計設備など、今と昔が残されているのも興味深いものでした。
4階からの眺め 昭和4年の修理(パンフレット)
地元の方のお話しでは、「毎日、午前8時と午後1時に太鼓、夕方には釣り鐘の音が録音テープで流されている」そうです。
この日の見学者は58名、4階でテレビ局、見学後新聞社の取材を受けました。
寝る前にサンテレビの「NEWS PORT」で一瞬ですが、ヘルメット姿の私が登場したのを確認しました。
(翌10日付け毎日新聞但馬版にコメントも紹介されていました)
見学会は第2回7月15日、第3回9月9日、第4回は竣工前の10月7日に計画されていて、さっそくスマホのスケジュールに入れておきました。
« 2017 コウノトリ 山本巣塔 足輪装着 | トップページ | 神鍋山野草を愛でる会 6月13日例会 »
「但馬物語」カテゴリの記事
- ユリノキと台風23号(2024.05.31)
- 北近畿豊岡自動車道延伸(豊岡出石インター)(2024.02.16)
- 承久の乱 雅成親王(2022.01.27)
- 鳥追いと七草がゆ(豊作と無病息災を願う)(2022.01.07)
- 写真集「但馬の100年」が出版されました(2021.12.12)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
新聞に出てましたね。
すごい仕掛けです。
投稿: 栄治 | 2017年6月10日 (土) 08時00分