府市場七地蔵めぐり(八)番外編(たたり田)
七地蔵を年代順に並べると・・・
①観音堂横 寛政四子五月日 (1792年=江戸後期)
②薬師堂南 寛政五丑七月吉日 (1793年=江戸後期)
③善応寺参道 文化三丙寅 (1806年=江戸後期)
④地蔵塔 嘉永七年甲寅載 (1854年=江戸末期)
⑤天菴(延命地蔵尊) 旧智文寺、文久三年亥 (1863年=江戸末期)
⑤首切り地蔵 文久三亥九月 (1863年=江戸末期)
⑦円山川堤防 不明
古くからすべての民、とりわけ子供を守る仏として庶民に親しまれており、あちこちに置かれています。
薬師如来や観音菩薩や寺院の近くに大きな石仏や堂が造られたのは、江戸時代後期となってからがほとんどです。
農村経済の発展が背景にあったのでしょうが、それまでは縁があったり信仰心の厚い民が路傍に置いた小さな石仏だったでしょう。
首切地蔵に関連して、近くの三角田(たたり田)について触れておきます。
高生平野を分ける山陰線の東南に面した農地で、三角形の形から「三角田」と呼ばれていて、子供の頃から「祟(たた)り田」として、大人からいわれを聞いていました。
耕作者が死んだり事故などの不幸が起き、引き継いだ者も同様の目に遭うことで、祟りがあるとして放置されていました。
首切地蔵との関連は不明ですが、前述の「国府ものがたり」には、国府村誌の記述に「サイ塚という塚があり、明治初年に取り除かれたと記している」とあります。
死者や墓を縁起の悪いものとして忌み嫌い怖れる気持ちと、病気や事故など偶然の事象が重なり合ってこうなったのでしょう。
三角田(たたり田の位置)昔は八代道といった
現在の三角田(たたり田)
平成7年から平成15年まで、兵庫県が主体となり、細分化されていた圃場を大規模化する整備が行なわれました。
その時、この三角田の所有者が豊岡市になったようです。(府市場岡ノ後263番1 604㎡)
豊岡市にとっても遊休地の活用及び売却は緊急の課題であり、何度か公売にかけたものの成立したという話しは聞きません。
いまでも写真のように放置されている状態です。
« 府市場七地蔵めぐり(七)首切地蔵 | トップページ | 黒鶴栽培記 Ⅲ »
「府市場物語」カテゴリの記事
- 2024 府市場区秋大祭(2024.10.13)
- 府市場タヌキ(2024.02.06)
- 府市場区収穫感謝祭(秋ブラナイン)(2023.11.26)
- 手辺ソバ栽培中(2023.09.30)
- 2023 敬老の日(2023.09.18)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント