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2022年1月31日 (月)

冬期湛水水田

近年府市場区で冬に水を張った田んぼを見かけます。

環境面では、水田に冬期間湛水する目的として、水田における生態系の保全とこれを活用した環境保全型農業の実施が目的とされ、雑草の抑制にも役立つとされます。
経済的には、無農薬で環境に優しい「コウノトリ育むお米」ブランドや減農薬米で付加価値を付け、収入を増やすことが期待されます。

コロナ禍で外食が減り、主食が多様化する中で米の消費が落ち込み、販売価格が値下がりしました。21年産コシヒリリのJA買い取り価格30kgが、20年の6,800円から6,300円に下がりました。
コシヒカリより早生で多収である「多収穫米(つきあかり)」を作業分散の狙いで作ってみたものの、思うほど穫れず価格も20年の6,500円から5,500円に値下がりしたとお聞きしました。

一方原油価格の高騰や円安などで諸経費も上がり、化学肥料が値上げされたことも農家を直撃しています。まさに踏んだり蹴ったりです。

減農薬や有機米は比較的売価が高く、鶏糞や牛糞、有機質肥料を使用することによって、経費の削減にもなるようです。
一方、反収が減る問題があるのと、有機農法は牛糞や鶏糞が中心となり、副産物の「匂い」が生じるので、用法や周りへの配慮も必要です。
皮肉なことにコロナ禍で、環境と経済の両立が進むことになりました。

府市場区の「ふゆみずたんぼ」 
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農家も付加価値を上げる努力とともに、加工米、飼料米、米粉米など用途限定米を作るなどいろいろ工夫されています。いずれにしても労働者にとって賃下げともいえる米価の下落は、農業従事者にとって死活問題です。

高温多湿な日本の気象に適し、収量も多く連作障害もないお米だけが自給できる食糧です。
気候変動、紛争、感染症の蔓延などひとたび危機が訪れれば、生産国も自国の供給を優先するので、輸入も簡単にできなくなります。
国民の命と暮らしを大切にする農業政策が求められます。


 

 

2022年1月27日 (木)

承久の乱 雅成親王

以前、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、豊岡市日高町国府地区の「婆焼きまつり」を記事にしました。
承久の乱の後、破れた後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)も但馬国、備前国へ配流され、雅成親王の但馬配流にまつわる史実を起源としているのが、婆焼き伝説です。

豊岡市高屋には宮内庁管理の雅成親王の墓所があります。
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後鳥羽天皇皇子

雅成親王墓

一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと

宮内庁

雅成親王のお墓(宮内庁所管)

後鳥羽天皇の第四皇子で、土御門・順徳両天皇の皇弟にあたられ、六条の宮様と申し上げた方であります。
親王二十二歳の承久三年後鳥羽上皇の倒幕の挙(承久の変という)がありましたが、戦い利あらず、ついに上皇方は敗北され、敵側の大将北条泰時により父君上皇は隠岐に、親王は高屋の地に配流となったのであります。
親王は黒木の御所で三十年間灰色の日々を送られていましたが、建長七年(一二五五年)二月十日この地で五十七歳の生涯を終えられたのであります。なお親王の配所であった黒木の御所跡を示す碑が墓所の南前現在高屋厚生年金住宅の横に立てられています。

宮内庁管轄で今も「墓守」が指名され、私の中学3年生の担任M先生(故人)も当地の住人でもあり、その任にあたられたとお聞きしました。

雅成親王の墓所の場所 ← をクリックしてください。




 

 

2022年1月24日 (月)

2022 山本巣塔 営巣準備

ヒナの巣立ちからほとんど住人のいない巣塔に鳥影が見えました。
鳥は冬に繁殖行動を起こし、季節がよくなった初夏にヒナて育て巣立ちさせます。

よく見ると巣塔には1羽が、巣塔の周りに2羽が飛んで様子をうかがっているように見えます。
山本巣塔のつがいの2羽に他の成鳥が、‘’ちょっかい‘’を出しているように見えます。
巣塔にいる雌が身体を丸くしてふくれているように見え、2羽がそれぞれ巣塔に近づいてきました。求愛&繁殖行動かも知れません。

飛んでいるのは足環があるのでメス、巣の中に入るのは足輪がないのでオス、身体を大きく膨らませてメスに対し求愛しているのか、近づく別のオスに対する脅しでしょうか?
動画にすればよく分かったのでしょうが、8枚の写真を時系列でご覧ください。

巣塔のオスが羽根を広げ、身体を膨らませています   
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2羽が飛び去った後
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コウノトリの郷公園以外に生息地を増やす試みで、日高町山本区にケージを作ってつがいを入れて環境に慣れさせ、順次放鳥したのが15年前の2007年6月でした。
その後仲のよい子育て上手のつがいは、ほぼ毎年2~3羽のヒナを育てています。

     3枚目の写真のアップ版(巣塔にもう一羽が寝ているように見えます)
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通常2月初めから準備を始め、巣作り→産卵→抱卵→孵化→子育てと続き、7月頃の巣立ちまで約半年かかります。
毎年繁殖の様子をブログ記事にしています。
過去記事は左サイドバーのカテゴリー「環境・まちづくり」から見ることができます。





 

 

2022年1月23日 (日)

冬の蘇武岳・神鍋山・大岡山

桜堤から眺める冬の蘇武岳・神鍋山・大岡山
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蘇武岳上部は樹木がないので、積雪の時は白い皿を伏せたように見えるのが山頂です
ということは山頂から伊佐屋も含む国府の町並みが見えます。

国府桜づつみ歩キングコース & 桜並木

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堤防補強を兼ねて、内側の法面を広く取り、様々な花木が植えられていて利用者を楽しませてくれます。
春は梅に始まり、ツバキ・アセビ・ユキヤナギ・レンギョウ・ソメイヨシノ・八重桜・ドウダンツツジ・ボケ・クチナシ・アジサイ秋にはハギ・桜の間に植わっているモミジが、紅葉を楽しませてくれます。
ゆったり流れる円山川の上郷橋の河畔林を、さらに歩きながら四方を眺めると、南から進美寺山・須留岐山、高竜寺岳・法沢山、大師山、三開山、剣蛇ヶ岳、西へ矢次山・大岡山・神鍋山・蘇武岳・妙見山など但馬の山々が見渡せます。
自宅近くを流れる円山川の上郷橋から西芝水門まで、絶好の散歩コースで、ここから眺める景色が大好きです。

片道3.5kmで上郷橋から往復すると7kmの「豊岡市歩キングコース」に指定されています。

 

 

 

2022年1月17日 (月)

1995.1.17 を忘れない

95年阪神淡路大震災から27年、コロナ禍で昨年ほどではないものの、いろいろ制約がある中で追悼行事が行なわれます。
都市震災として人や街に甚大な被害をもたらしましたが、いまはビルや住宅が建ち並び道や橋も整備され、外観上は震災の傷跡がほとんど見られません。
一方、死者 6,434人、負傷者 43,792人を始め心の傷跡はいまも、癒えるものではありません。
我が伊佐屋は同じ兵庫県に住み、兄弟2人が神戸に住んでいて、2人とも須磨区の北や北区だったので大きな被害は免れました。

母は当時日高町の社会福祉協議会の役員をしていた関係で、毎週のように炊きだしボランティアに神戸へ出かけていました。
日高町にはイベントで使うマロニエ鍋と呼ぶ大鍋があって、いつものように汁を作っていると、被災者の方が「美味しいお汁も嬉しいけど、この鍋でお風呂に入りたい」と言われた。人はお腹を満たすだけではすまないのだなあ」としみじみ話していました。

2009年1月17日の伊佐屋三木のblog「我が家の1.17」を再録します。

 

14年前の午前5時46分阪神・淡路大震災が起こった。
その日の但馬は前々日から降り続いた雪で、積雪は40cmを超えていた。
明け方に突然の揺れで目をさました。
寝室が二階なのと、屋根に雪が積もっていたことで、左右の揺れで柱がみしみしと音を立てていた。
揺れは止まず、ひょっとしたら家が倒れる心配も出てきた。
隣室にいた高校生の娘も目を覚まし、私達の部屋に逃げ込んできた。
急いで、テレビを付けると例のアナウンサーのうわずった声が、県南部の地震を告げていた。
揺れが治まった後、雨戸を開けると満月が見えた。

同じ兵庫県に住んでいながら、100km以上も離れていて被害という被害はほとんどなかった。 
兄と妹が神戸に住んでいて、電話で「家財は一部壊れたりしたが、無事だから心配するな」との連絡があるも、以後不通。
県中部に住んでいる大学生の娘に電話を入れるが、例によって留守。
連休なので、どこかに遊びに出ているのだろう。
後で聞くとテレビがベットの上に落ちていたらしい。

いつも通り出社すると、ワープロ本体の上に置いたプリンターがずれていた程度で、被害は皆無。
豊岡が震度5と報道されたことで、県外の方々からお見舞いの電話を頂いた。
遠くの親戚からも安否確認の電話が入る。
近県なら都市の位置関係はわかるけど、離れれば離れるほどひとまとめに感じてしまう。

その後昼のニュースで、画像が提供され被害の一部を知ることができた。
この時死者は200人を超すとのアナウンスがある。
電話は繋がらず、ラジオとテレビだけが情報源でしかなかった。
豊岡市では前日成人式が行われ、参加した新成人が、勤務に就くため神戸に帰り、被災し死亡した悲しいニュースを後で聞いた。
この震災で最終的に、6,434人が亡くなった。

復興のシンボル曲『しあわせ運べるように』
作詞・作曲 臼井 真
歌 : 神戸市立港島小学校

阪神・淡路大震災からの復興を願って作られたすばらしい曲です。

大震災から約2週間後に、当時中央区吾妻小学校に勤めていた臼井先生が作詞・作曲しました。
新潟県中越地震、東日本大震災のときも、歌われたと作者の臼井先生が述懐されていました。
歌詞の一部を地域の名に置き換え、涙を流しながら被災者を悼み、震災からの復興を誓われたのでしょう。
文字どおり「歌が人を勇気づける」ことが証明されました。
先日、「神戸市歌」にも指定されました

 

 
 

2022年1月14日 (金)

アライグマ捕獲大作戦

私の住む府市場区西側は市街地ですが、最近「獣害」も報告されるようになりました。
畑の作物が荒らされたり、溝蓋に糞が残っていたり、家の天井から騒音や糞尿が落ちるなどです。空き家が増えて人の手が入らないことで、巣を作っているようです。
先日散歩の途中に仕掛けてある罠を覗いてみると、大きな獣がかかっています。

捕獲器 & 掛かったアライグマ & 挟まれた足
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<区役員Bさんの経過説明 >     
昨年区民の報告を受けて豊岡市農林課と相談して、ビデオと罠が設置されましたが、イタチが2匹かかっただけで、期限の1ヶ月が過ぎたのでいったん撤収されました。
当該場所は府市場区の国道沿いでも、「アライグマは周期的に移動するのと、空き家や高い木がある場所なので、諦めず時期がきたら連絡下さい」との指導でした。

稲刈りが終わり、田んぼに隠れ家などがなくなるとまた、4隣保周辺で4~5匹の目撃情報があり、あらためて2器設置されました。費用は獣害駆除対策として、府市場農会と豊岡市農林課からそれぞれ半額補助を受けました。

場所を変えたり、アライグマのフンを檻の中に入れたり、エサもキャラメルコーンや、アユの干物を入れるなど工夫をしたところ、程なく1匹かかりました。その後も周辺で4~5匹が目撃されていて、順次檻に入るようになり、5匹は捕獲されたと思います。

因みに件の獣の処理は「兵庫猟友会豊岡支部」の方にお願いしています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ただ、私が年末に国道を渡るのを見たのは、確かに顔の周辺が白く、鼻先が少し長い「アナグマ」でした。
アライグマはアナグマやタヌキと違って尻尾が太く、長く、5~10本の黒いしま模様があるといいます。今回檻に入った獣は顔や尻尾が見えませんでした。
写真のように罠に挟まれている足を見ると、長く鋭い穴掘り爪がなく、空き家に巣くっているとなるとアライグマですね。

2010年の記事「アライグマ捕獲大作戦クリック(画面左端の「」マークで元記事へ
2016年の記事「府市場アナグマ」←クリック(画面左端の「」マークで元記事へ)

アライグマなら、「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」に基づき有害獣として処置されます。
ところが、アナグマとなると環境省でも認められている害獣である反面、鳥獣保護管理法という法律で保護されている動物だそうで、少し扱いが異なるようです。

どちらにしても、有害獣に変わりはありません。
区内の空き家は減るどころか過疎化で徐々に増えています。
獣害を解決するには住民が「気づき」を怠らず、根気よく駆除を続けていくしかないようです。

  

 

2022年1月13日 (木)

承久の乱 オトウマツリ(婆焼き) 

通称「婆焼き」と称され、4月14日(旧暦3月14日)に、松を立て周囲を竹で囲いお鉢を作り、上部に老婆に見立てた人形を縛り付けて、焼き捨てるという珍しい火祭りが行われます。

今もこの伝統を受け継いでいるのは国府地区松岡区だけで、「お柱まつり」と呼ばれ、村を二分してそれぞれ隔年で当番を担当しています。

祭りの由来は、・・・
但馬(豊岡市高屋)に雅成親王(後鳥羽上皇第四皇子)が流刑となり、その後を追って、雅成親王の妻、幸姫が京の都からやってきました。その時、幸姫は懐妊の身で急に産気づき、この地で王子を生み落としました。しかし、産後のひだちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋まであと何日かかりますか」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて20日はかかる」と答えました。 これを聞いた幸姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。
 その後、毎年洪水が起き、村人を苦しめたため、その霊を祀ったのが始まりと伝えられています。竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるという奇祭です。』(但馬の百科事典より)

         松岡婆焼き(2014年撮影)
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乱後、破れた後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。
後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)も但馬国、備前国へ配流され、雅成親王の但馬配流にまつわる史実を起源としているのが、婆焼き伝説です。

もともと将軍源実朝が暗殺された直後、鎌倉幕府から雅成親王を次期将軍に迎えたいとする要請が出されますが、後鳥羽上皇はこれを拒絶します。
「歴史のIF」が許されるなら親王は4代将軍として朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役になられたかも知れません。いずれは両者の衝突は避けられなかったでしょうが・・・・・。
それでも後鳥羽上皇の死後に幕府から親王の赦免が出された記録が残っています。

春先の気候でこの時期には、強い南風が吹いたり、円山川に水害が多く発生することに対する安全と豊作を願う「火祭り」が、故事を元にした祈りに変わったという説もあります。

かっては上郷・土居・府市場・野々庄・芝の各区でも同様な行事がありましたが、僅かに伊佐屋の住む府市場区が「お塔まつり」として残っていて、我が伊佐屋もその講の一員です。
府市場で続けられた「お塔まつり(婆焼き)」も、令和元年を期に「お塔講」を解散しました。
これは別の機会に記事にします。
   
  
  

2022年1月10日 (月)

鎌倉殿の13人と但馬

9日からNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まりました。
あいにく山歩きグループ「TeamF1b」の新年会と重なり見逃しましたが、今週土曜日の再放送に期待します。
便利な世の中になったもので、朝ドラなど再放送以外に一挙放映もあるようで、一体視聴率とはどんな意味があるのかと疑問を持ちます。

ドラマの主人公となる両雄、北条義時と後鳥羽上皇の争いのクライマックスは「承久の乱」ですが、御家人13人衆も大きな役割を果たします。
「新撰組!」、「真田丸」に続き、大河三作目の脚本は三谷幸喜さん、「基本的に史実に忠実なんです。史実ではっきりしない部分を想像力でまかなうのです」と話されています。
想像力の中に三谷さん得意のユーモアを含むエンターテイメント性を持たせてくれるのを期待しましょう。

ところで、「承久の乱」に関わる史実をもとに、豊岡市いや国府地区に今なお引き継がれている行事が残っています。
つい2年前には伊佐屋もかかわっていました。それはまた別の機会に・・・・・。





2022年1月 7日 (金)

鳥追いと七草がゆ(豊作と無病息災を願う)

豊作と無病息災を願う、これが人の願いの原点ですね。

正月の期間を、松の内(まつのうち)と呼び、一般には7日までです。
七日の朝に食べる七種粥(あるいは、七草粥とも)が、松の内の最後の行事で正月飾りを片付けます。(浄土真宗の我が家では門松も注連縄も飾りません)

七草粥のいわれは、本来は無病息災・健康長寿だったのが、正月のご馳走で酷使した胃をいたわり休ませる説が有名です。
と同時に「鳥追い行事」の意味もあるとされます。
子供の頃、父が菜を刻む時、まな板を叩いて大きな音をさせ、「唐土(とうど)の鳥が、日本の国に渡らぬうちに七草そろえ・・・・・と唱えていたのを覚えています。
害鳥を追い、疫病が流行せぬことを願った厄除けの一種でしょう。

香住の長井村出身で島根大学教授でもあった農学者 榎勇氏著の『北但馬 ムラの生活誌 昭和初期の歳事と民俗』に「鳥追い」(1月6日)と「七草」(1月7日)として当時の長井村の様子が記されています。

榎勇氏著 「北但馬 ムラの生活誌」
P1080007この本は544ページに及び、「戦前の農業や農家の生活を実際に体験し、かつ農学の研究者でもあるという稀な経歴をもつ著者が、生まれ育った北但馬(兵庫県)のムラの一年間の農家にまつわる歳事と民俗を綴った貴重書。多数の写真と図版を付す。」と紹介されています。著者は昭和4年生まれ、昭和22年生まれで同じ城崎郡に育った私にとって、農・食・歳事・遊びなど体験したほとんどが詳しく記載されていて勉強になります。

七草粥は有名ですが「鳥追い」は余り知られてないので、Wikipediaで調べてみると・・・
七種は、前日の夜に俎に乗せて囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れる。囃し歌は鳥追い歌に由来するものであり、これは七種粥の行事と、豊作を祈る行事が結び付いたものと考えられている。
歌の歌詞は「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」など地方により多少の違いがある』 と記されています。どうやら前夜に菜を叩いて鳥を追い、翌日粥を食べたようです。

春の七草は「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、これぞ七草」と覚えました。

 

 

  

2022年1月 6日 (木)

冬至十日経てば

「冬至十日経てば◯◯でも知る」と言われますが、14日も経てば日が長くなっているのに気づきます。
実際に日没時刻が徐々に延び、冬至から10分ほどとなりました。
一方、日の出は相変わらず遅く、早くなるのは1月中旬からだそうです。
ということは、「阿呆でも知る」のは、日の入りが延びているからですね。
もちろん日照時間そのものは長くなってきているのは間違いありません。
地球の地軸の傾むきと公転軌道が楕円であるためにずれが生じるとのことです。

それ以外に我が家は日の入りの位置でも季節を感じます。
古来より国府や府市場の中心にあり、自宅の裏である西側には高生平野(国府平野)が広がり、遠くに山並みが見通せます。

          左:但馬妙見山、中央:蘇武岳(雲に隠れる)、右:大岡山
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春分(春彼岸)の時期は真西、つまり蘇武岳の右側、金山(かなやま)付近に日が落ちます。
夏至の頃はずっと北へ動き、大岡山山頂を越え下って右肩付近となります。→「夏至の夕日
秋分(秋彼岸)はもとの西に戻り、冬至になると今度は南に動いて、但馬妙見山の山頂を越えて左肩付近に日が落ちます。
それぞれ30度、北や南に動くのが観察できます。

日の入り(真西に伸びる麦畑と農道) & 冬至に妙見山左肩に沈む夕日
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併せて南中高度(太陽の位置)も動きます。
これで洗濯物の干し位置を変えます。
季節の移り変わりは、気象・生物の変化で感じられますが、我が家では日の入り時刻と共に位置(場所)でも知ります。

 

 

 

2022年1月 1日 (土)

2021 謹賀新年

                Img_20211231_0001

今年いただいた年賀状に「ブログ見てるよ」との励ましのお言葉がありました。
以前のような馬力はありませんが、これからもぼちぼち続けていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

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