承久の乱 雅成親王
以前、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、豊岡市日高町国府地区の「婆焼きまつり」を記事にしました。
承久の乱の後、破れた後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)も但馬国、備前国へ配流され、雅成親王の但馬配流にまつわる史実を起源としているのが、婆焼き伝説です。
後鳥羽天皇皇子
雅成親王墓
一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと宮内庁
雅成親王のお墓(宮内庁所管)
後鳥羽天皇の第四皇子で、土御門・順徳両天皇の皇弟にあたられ、六条の宮様と申し上げた方であります。
親王二十二歳の承久三年後鳥羽上皇の倒幕の挙(承久の変という)がありましたが、戦い利あらず、ついに上皇方は敗北され、敵側の大将北条泰時により父君上皇は隠岐に、親王は高屋の地に配流となったのであります。
親王は黒木の御所で三十年間灰色の日々を送られていましたが、建長七年(一二五五年)二月十日この地で五十七歳の生涯を終えられたのであります。なお親王の配所であった黒木の御所跡を示す碑が墓所の南前現在高屋厚生年金住宅の横に立てられています。
宮内庁管轄で今も「墓守」が指名され、私の中学3年生の担任M先生(故人)も当地の住人でもあり、その任にあたられたとお聞きしました。
雅成親王の墓所の場所 ← をクリックしてください。
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コメント
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宮内庁管理。。。すごいものがあるんですね。
知りませんでした。。。
投稿: 栄治 | 2022年1月28日 (金) 07時09分