伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅱ
軍国主義の時代が終わり、民主主義国家となった時期に生まれ、平和主義、国民主権、基本的人権が中心の憲法が制定されました。
同じ歳生まれの日本国憲法を活かし、9条を守ることを考えれば、反戦平和・社会正義を希求する立場になります。
ただ、ほかに伊佐屋三木家の悲しい物語があります。
伊佐屋家 戦没者二柱
満州事変1931年(昭和6年)から始まって、支那事変(昭和12年)へと、日本と中国(中華民国)全面的な戦争状態に突入しました。
日本の中国侵略が、盧溝橋事件を経て自衛を口実に中国全土に拡大したです。
1938年(昭和13年)に4男の叔父薫24歳が、翌年に2男の伯父伊和夫29歳が、続いて中国戦線で戦死しています。
墓石の文章では、国府村吏員だった薫叔父が、中国山西省霊石縣呉家山頭で、戦闘中迫撃砲が命中して戦死しています。
東京大学農学部付属教員養成所(3年制)で学び、農業学校教員だった伊和夫伯父が、中国河北省易縣西方山地で、「匪賊」との激戦で戦死しています。
そのほか、5男進が1941年(昭和16年)に、23歳で結核によって病死しています。進叔父は旧制豊岡中学校を卒業後三菱造船所の設計課に勤務中、結核に罹患して伊佐屋に戻りました。
母たみの手厚い看護も及ばず、1941年(昭和16年)1月に死去、たみも看病で結核に感染し、追うように同年11月に病死しています。
1つの家で2人が続いて戦死し、もう1人も厳しい造船所勤務で結核に罹って家に帰されるのはある意味職場における「戦死」のようなもので、さらに看病の母も結核で亡くなるという悲しい伊佐屋家の物語です。
3男である私の父素は、商社勤務地である中国で招集されたものの、幸運にも生き残り伊佐屋に帰郷し後を継ぎました。
祖父秀蔵は復員した父に、「しいらが帰ってきた」とつぶやいたそうです。「しいら」(粃米)で、未熟米のことを表します。また、「しいら」は、当時安くて美味しくない魚と言われていて、このことかも知れません。いずれもひどい言葉です。
次男は兵庫蚕糸学校(現八鹿高等学校)から東大農学部教員養成所、5男は旧制豊岡中学校に進みましたが、3男の父は高等小学校(今の中学校)を出て、知り合いの瀬戸市の陶器所や大阪の印刷所に丁稚奉公しています。本音ではないでしょうが、期待の子を次々と亡くし、戦争を生きのびてやっと帰ってきた息子に対し、不器用な言い方で迎えた祖父の心は複雑なものだったのでしょう。
父は中国で綿花買い付けを行なっていた親戚に誘われて、大陸に渡り、済南・青島に勤務し、開封支店の責任者を務めて現地で召集されています。部隊勤務でも「支那語」が堪能だったので重宝されたそうです。
アジア太平洋戦争で、大空襲・沖縄戦・原爆と類を見ない戦禍は幾つもあるでしょう。
しかし昭和13年から16年にかけて家族4人を失うことになった伊佐屋の悲しい物語を知るにつけ、戦争への憎しみ、平和を求める心が強くなるのは当然です。
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