青春

2023年11月 1日 (水)

豊岡高校18期 喜寿記念同窓会

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我々の高校在籍が’63年から’67年です。
’50年代から'60年代にヒットしたアメリカや イギリスなどのポピュラー音楽を「オールディーズ( Oldies) 」と呼んで、中高年に根強い人気があります。当時、江利チエミ・雪村いずみ・弘田三枝子・九重佑三子ほか日本人歌手が日本語でカバーしてヒットしていた時代でした。
一方青春歌謡のジャンルで、舟木一夫、橋幸雄、西郷輝彦の御三家の歌が巷にあふれていました。

前回は2016年「古希記念同窓会」でした。今年数え七十七を迎えることから「喜寿記念同窓会」として城崎温泉で開催され、関東や関西から76人が集まりました。同窓会も今回で10回目となり、たぶんこれが最後ということで私も出席しました。
128人だった前回から減って、名簿上は76人で「㐂」には届きませんでした。

梨ワインで乾杯 & 校歌をうたう
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亡くなった師や友も増えました。子育てを卒業し、両親を見送ると今度は自身や配偶者が体調を崩し参加できないとの返事もありました。
歓談タイムは、仕事や子供の話が多かった時期を過ぎ、持病・入院・手術歴がメインで、ちょっぴり趣味が話題となりました。
驚いたのは、息子や娘が独身で相手を探している友も数人ありました。子育てが今も続いているのです。

クラスで写真 & 万歳で締める

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1947年(昭和22年)生まれは267万人で、前年の1946年(昭和21年)は157万人、100万人まで減ったのが2015年(平成27年)、直近の2022年(令和4年)は77万747人となり、初めて80万人台を割り込みました。なんと私たちの3分の1以下です。

団塊世代のトップバッターとして学校は寿司詰め、受験も就職も競争に明け暮れたような気がします。年金を受給する世代になると年金問題が、医者にかかるようになると医療費問題、これから要介護世代になると介護問題が取り上げられ目の敵(かたき)にされます。

激動の昭和・変動の平成を懸命に生き、令和になって人生の仕上げの時期を迎える私たちです。
丈夫な体に生み育ててくれた両親やともに頑張った家族に感謝しつつ、何よりも、頑張った自分を誉めてあげましょう。



 



 

2023年9月 2日 (土)

多芸多才の人

当然これは私のことではありません。
島根大学1年先輩で、教育学部を卒業し高槻市で小学校に勤め、その後島根県大田市に帰郷され、今は不登校児童のサポートと、世界遺産石見銀山ガイドとして精を出しています。

その彼がまたまた、朝日歌壇に入選しました。

八月の6+(たす)9=(の)15なる数の不思議に不戦を誓う」 (大田市)安立聖

永田和宏氏 評

安立さん、そう、6と9があったから15があったという歴史の悲劇を忘れてはならない

あるときなどは、歌壇と俳壇に同時入選したこともありました。
最近は一年前に亡くされた奥さまを思う句を投稿されていました。

入選句にある不戦の思いは、ユネスコ憲章の前文の中にあります。

戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。

「お互いをよく知れば仲良くなり、憎しみや疑いは生まれない」という当たり前のことができていないのです。
特にお隣の中国や韓国、北朝鮮がうまくいっていません。かって日本が「
アジア・太平洋戦争」で多大の被害を与えた国々です。

朝日歌壇や俳壇のほかに、NHKラジオ(マイあさだより)のレポーター、石見銀山ガイドのブログの筆者にと、この先輩は私の興味範囲にたびたび現れます。

 

 

 

 

 

  

2019年11月11日 (月)

島根大学法学科1期生同窓会

1970年に卒業して足かけ50年、10年ぶりに松江で開催された同窓会に参加しました。
旧制松江高校を母体とする文理学部の文科が文学科と法学科に改組され、我々が1期生にあたります。
80人の小所帯で、マドンナ2人以外はすべて男性です。


会場のホテル
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  乾杯の発声は遠来の客(フィリピン・ダバオ在住)のM君
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集合写真 と フィナーレに校歌「青春の歌」を歌う
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入学したのが1967年、アメリカによるベトナム侵略・安保改定・沖縄返還・大学紛争など政治的エポックを通じて、社会を考えた団塊世代でした。
当時は60年に結ばれた日米安全保障条約(日米安保)の改定期でもあり、その上沖縄県はアメリカの占領下にありました。
このような時代背景が若者に、「不正義」「不平等」を憎み、平和や民主主義、人権に対する考えを育てるようになりました。
自治会主催のデモだけでなく、法学科主催のデモ行進もおこないました。

’68年~’69年は全国に広がった「大学紛争」まっただ中で、島根大学でも大学封鎖も経験し、セクト、ノンセクトラディカル、ノンポリも含めて対立した時代でした。
当時のスタンスが違った顔も見られましたが、半世紀経てばもはや「ノーサイド」です。

ただ、「青春の蹉跌」や「若気のいたり」で済ませるのではなく、社会正義・社会変革の心を持ち続け、職場や地域・学園で活動を続けてきたメンバーも少なからず見られます。
特に出席のT君などはは日本共産党の松江市会議員として、島根原発に反対し市民の生活を守る活動の先頭に立っています。

それはともかく72歳を過ぎ、人生の後半戦からまとめにかかる時代です。
元気で再開できることを念じながら、友と別れを惜しみました。


2016年10月31日 (月)

2016府中小・中学校古希同窓会

20日に「府中小中学校古希記念同窓会を開催します」の記事をアップしましたが、昭和22年生まれは数えで70歳、古希を迎えることから古希同窓会を開催しました。

「卒業生」「○○期生」としないのは転校生も含めて縁があったすべての友を対象にしたいからです。
 
府中小学校正門              府中中学校校舎
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私がUターンしたのが1983年、それ以後の開催年を調べると、1986年、1992年、1996年、2000年、2004年、2007年、2012年、ほぼオリンピックの年に開催しています。
 
城崎温泉 あさぎり荘                      みんないい顔してます
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司会は4年まで在学したO君    代表幹事挨拶
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物故者が15名、男性が13名と大半を占めています。
高度経済成長のまっただ中、体を酷使したのかストレスかはたまた不摂生によるものか、団塊男子は辛いのです。
 
代表幹事の挨拶・・
「団塊世代のトップバッターとして学校は寿司詰め、受験も就職も競争に明け暮れたような気がします。
年金を受給する世代になると年金問題が、医者にかかるようになると医療費問題、これから要介護世代になると介護問題が取り上げられ目の敵(かたき)にされています。
還暦を迎えたころは薄毛や白髪・皺やたるみなど外観を老化だと感じていましたが、最近膝・腰・肩などの運動機能障害と脳や内臓系の疾病が老化の本体であることを実感しています。
亡くなった友はすでに15名を数えます。
激動の昭和・変動の平成を懸命に生きて人生の仕上げの時期を迎える私たちです。
丈夫な体に育ててくれた両親やともに頑張った家族に感謝しつつ、何よりも頑張った自分を誉めてあげましょう。」
 
談笑風景                  「ふるさと」を歌う
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再会を期して万歳             二次会風景
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K君製作の名札を胸に40~50年前の写真と実物を較べ、ギャップの大きさを感じつつ面影を探します。
青春の思い出や家族のこと、体の心配事など話は尽きることはありません。
別室で行われた二次会も11時前まで続きました。
 
次回は4年後の「東京2020」、今日の日はさようなら、元気でまた会いましょう。
 
 

2016年10月20日 (木)

府中小中学校古希記念同窓会を開催します

6月に開催された豊岡高校18期同窓会に続き、小中学校の古希記念同窓会が1週間後に開催されます。
第○期や卒業生などと書かないのは、転校生も含めて関係したすべての友を対象とするからです。

案内文の一節にこう書かれています。

「古希は人生50年と考えられていた時代に、70歳を迎えられるというのは非常に稀(まれ)だという意味から、お祝いされるようになったと言われます。
激動の昭和・平成を懸命に生きて人生の仕上げの時期を迎える私たちです。
お互いの健闘をたたえつつ、少年少女時代の思い出や健やかな未来を語り合いましょう」
 
K君作成の横断幕
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参加者名札
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高校の時と同様、画家のK君が苦労してアルバムの写真から名札を作成してくれました。
こちらは小学校卒業時(12歳)の写真なので、さらにギャップがあり話題になることでしょう。
因みに伊佐屋君は当時では珍しいおかっぱ頭で、生意気にも胸にペンを挿していました。
 
同窓生109名、逝去15名、住所不明7名 案内状発送87名で出席は32名です。
 

<マイブログの府中小中学校関連の記事>
 
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2016年10月 4日 (火)

師を悼む

高校3年の担任で卒業後もおつきあいをいただいたK先生が急逝されました。

青蹊書院の主宰者池田草庵の集まりで急に体調を崩され、救急搬送されたものの間に合わなかったとお聞きしました。
20161004_105439_3先生と親しかった豊岡高校18期の仲間と葬儀に出席してきました。
祭壇からいつも通りの先生が笑顔で迎えてくれました。
教員時代から平和を尊び社会正義を守る活動を実践され、卒業後は地域に親しみ、地区の子供たちと交流を続けられているとお聞きしていました。
 
直近では9月11日に「安保関連法制定1周年集会」でお会いし、挨拶すると、「この間の同窓会ありがとう!楽しかった!」と返していただきました。
お歳は召したもののお元気そうで例によって「平和遺族会」の幟を持って、前列付近で行進されていたのが印象的でした。
 
弟さんから親族のご挨拶で先生の生い立ちや人となりをお聞きしました。
満州事変で当主が戦死され跡継ぎがなかったご母堂の実家の姓を継がれたこと。
子供時代から本が好きで、よく勉強されていたこと。
高等小学校を卒業するとき、学校から3度に渡って旧制豊岡中学校受験を勧められ、成績の優秀さと向学の心に、「家格」や資金を気にされながらも父上が進学を決断されたこと。 
戦後の学制改革で、移行した豊岡高校を卒業され広島大学(旧広島高等師範学校)に進まれ、卒業後教職に就かれたこと。
愚直と言えるほどの性格で争いを好まず、名利を求めず不器用に生きられたことなど、先生の人となりを偲ぶことができました。
 
中国侵略の端緒となった満州事変で義父を失ったこと、豊岡中学校在学時に学徒動員作業で6人の友を失ったこと、戦後間もなく被爆地の広島大学で学ばれたこと、軍国主義教育の反省からの民主教育への強い志などが、平和を尊び生涯をかけて実践された活動の原点だったように思えます。
戒名の4文字の中に先生がなにより求められた平和の「平」がありました。
 
3年9ホームの担任とししてだけでなく、卒業後もUターン後もいろいろお付き合いいただきました。
名利を求めず生涯かけて平和と社会正義の実現を目指してこられたことに敬意を表しつつ、お酒好きで話し好きだった先生の在りし日の姿を偲びつつお別れしてきました。
 
<マイブログのK先生関連の記事>
 
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2016年6月 6日 (月)

古きよき時代 豊岡高校18期 古希記念同窓会

我々の高校在籍が’63年から’67年。
’50年代から'60年代にヒットしたアメリカや イギリスなどのポピュラー音楽を「オールディーズ( Oldies) 」と呼んで、中高年に根強い人気があります。
当時日本人歌手がこれを日本語で歌ってヒットしていた時代で、舟木一夫、橋幸雄、西郷輝彦の御三家の青春歌謡も巷にあふれていた時代でした。

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そんな世代もはや古希を迎え、記念同窓会が城崎で開かれました。
資料によると35年前の'81年の第一回から数えて9回目、今回は地元但馬と関西・関東の各支部36人の皆さんにお世話になりました。
 参加者は先生5、男子64、女子59、合計128人。
遠くは北海道からY君、いやドイツ在住で里帰りしていた声楽家のO君も参加しています。

わが3年9ホームはなんと15人の最多出席、名簿を見ると京都に住むM君以外は地元但馬在住でした。


       
                 屋外で集合写真
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乾杯!                         ご出席の恩師5氏   
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乾杯後は各テーブルに分かれて、食事を楽しみながら懇談です。
絵描きのK君の苦労作、卒業前の顔写真入りの名札で確かめながら記憶をたどります。
顔を合わせるだけですぐに半世紀の時空を超えて昔話に花が咲くのが同窓生です。
食べ飲みながら、しゃべる、「あれから50年」この言葉があちこちで飛び交っています。

校歌「群山の♪・・」 四番まで大合唱
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お開きの時間となり、恩師を囲んで当該クラスの出席者が記念撮影します。
厚かましくも私は、1年、2年、3年の全学年でクラス写真を撮ってもらいました。

1947年(昭和22年)生まれは267万人で、前年の1946(昭和21年)は157万人、直近の2015年(平成27年)生まれは100万8000人、当時の状況は「推して知るべし」ですね。
  当時の豊岡高校全体図 (小山譲 画)
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学校は寿司詰め、受験も就職も結婚も?競争に明け暮れたような気がします。
教室は前から後まで席が並び、横移動ができずに出入りは前方だけ、理科や家庭科などの特殊教室が普通クラスに模様替えされ、教室にある栓をひねるとシューッとガスが出たとの笑えぬ話しもありました。
 
年金を受給する世代になると年金問題が、医者にかかるようになると医療費問題、これから要介護世代になると介護問題が取り上げられ目の敵にされます。

物故者は一割強の60数名とのこと、高度経済成長を担い団塊第二世代を育て上げ、親の介護の苦労話しも聞きます。
競争時代には損したような気がしましたが、ノーサイドの今は仲間が多いことはすばらしいことです。
 
古きよき時代 (The good old days) を共有した仲間に 「再見!」
 

2016年6月 3日 (金)

豊岡高校18期 3年9ホーム

1年、2年と書くと次は3年生でしょう。
半世紀前の話なので不確かなところがあるのはお許しください。

クラス担任はK先生で、男子生徒ばかり53名。
K先生もユニークで有名な方ですが、生徒も粒ぞろいの個性が集まっていました。
大学受験を目指すものがほとんどですが、さしたる緊張感もなくのんびりとした雰囲気で、ホームルームがやたら盛り上がりました。
思い出の一つは豊高祭のパレードに仮装で参加したこと。
テーマは「失われた世代」で、戦後の日本で見られた「浮浪者」「乞食」「傷痍軍人」「下肢障害者(いざり)」「進駐軍兵士」などに扮して行進しました。

            豊高祭パレード(失われた世代)
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市内の業者さんの倉庫で、廃品回収された衣装の中から借りてきたものがほとんどでしたが、クラスのほぼ全員が参加しています。
圧巻だったのは今は亡きN君の「いざり」姿でした。
キャスターが付いた板に乗って腕でかいて進むさまは、演技と思えない迫力がありました。

鉢伏合宿勉強会

Scn_0001 そんなクラスでも夏前になると勉強気運が盛り上がり、鉢伏民宿で行われた「合宿勉強会」に多くが参加しました。
学力が伸び悩んでいる生徒を支援すべく、計画された合宿に40名程度の希望者を数名の先生が担当されました。
授業はなく先生は個人学習を支援されていたのと一部テストがあったり、夜は小学校校庭で火を囲んで歌ったこともありました。

珍しいことなのか、新聞社の取材もありました。
一つところで生活し勉強することで、強い連帯感が生まれたように感じます。
それぞれの受験に役だったことでしょう。


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K先生が退官されるとき、3年9ホーム生徒が集まって「退官のお祝い会」を開き、記念品として鞄を送りました。
先生から豊高校歌の自筆の色紙とテレフォンカードをいただきました。

テレフォンカードは旧制豊岡中学の校舎であり当時我々も学んだものの昭和47年焼失した旧校舎の写真です。
もう一枚は文化祭記念歌の印刷されていて、1番「平和の誓い胸に秘めつつ いまここに 自治の砦を築くのだ」、2番の「自由の鐘を打ち鳴らしつつ ふるさとに 文化の華を咲かすのだ」の格調高い歌詞に、軍国日本が終わりを告げ、自由で平和な社会が訪れた喜びと新制高校発足時の意気込みが感じられます。

K先生が豊岡高等学校の前身である旧制豊岡中学校旧制中学校に在学時、勤労動員作業の帰りに生徒6人が亡くなる「楽々浦学徒殉難」があり、70年を超えて今なお追悼を続けられています。
敗戦間もない被爆地の広島大学(旧広島高等師範学)で学ばれたことも組合活動や平和運動に力を入れてこられた理由でしょう。
先生も生徒も個性派が多く印象深いこともあって、今回の「古希記念同窓会」の出席者は一番多いと聞いています。
 

2016年6月 1日 (水)

豊岡高校18期 2年10ホーム

2年のクラス替えは進学か就職かを基準に行われたように思います。
場所は北側校舎の1階でかつ西側でした。
隣の教室に「専攻科」といって、高校を卒業したお姉さんが学んでいました。
(当時は但馬に短大もなく、さらに教養を身につけるべく修業年限は1年でした。これも我々が卒業した翌年に募集停止されました)

男子校でもないのに全員男子で53名担任はO先生、中学校から転勤されて初めての担任でその前は長崎の高校で勤務されてたとお聞きしました。
化学が専門でクラスのことも熱心に指導していただき、その後仕事でもお世話になりました。
ただ教室は超満員で横移動ができず、教室の出入りは前からだったように思います。

この年の重大行事、修学旅行は北九州へ。
国鉄で長崎駅へ、バスに乗り換えて長崎市内や原爆記念公園を見学し、雲仙で一泊。
翌日は熊本城・水前寺公園を見学後、阿蘇山を観光して、別府温泉で泊まりました。
夜には別府港から船に乗って翌朝神戸に着きました。
車中で前年に大ヒットした舟木一夫の「高校三年生」や「修学旅行」、橋幸夫の「恋をするなら」など青春歌謡の数々を歌ったのを覚えています。

当時の和魂ホール(達徳会名簿から)
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クラスには優秀な生徒が多く、結構勉強が盛んだったのと生徒自治会の役員としても活躍していました。
私はといえば勉強もほどほどに、部活もせずにもっぱら川で魚釣りをしていました。
今となると部活で得られる先輩と後輩の縦つながりが得られなかったのが悔やまれます。
   
  

2016年5月31日 (火)

豊岡高校18期 1年3ホーム

豊岡高校卒業生の「古希同窓会」も近づいてきました。
参加者が増えて120人を超すとのことです。
参加者用名札づくり担当で絵描きK君が、追加を聞く都度「手間がかかってかなわんな」と苦笑いしていました。

昨日和歌山県に住む旧姓Oさんから手紙が届きました。
1年3ホームのときの担任H先生とクラスメイト15人(男子4人女子11人)が参加すると写真付きで送っていただきました。

昭和47年に焼失した旧制中学校舎(クリックで拡大します)

Scn_0002 昭和38年4月教育大を卒業して初赴任のH先生と入学したての男女52名の大所帯でした。
先生というよりお兄さんといった気さくな関係でまとまりもよく、全校合唱コンクールで「山小屋のともしび」を歌って3位に入ったこともありました。

遠足は大屋の天滝から杉ヶ沢高原に登って撮った集合写真が残っています。
またこのとき生徒指導部から頭髪規制(長髪禁止)の提案があり、何度か生徒大会が開かれました。
600人近い学年生徒の前で堂々と意見を述べるN君のかっこよさも目立ちました。
今に思えば学校教育への管理強化の一環でした。
教師の中にも規制反対の意見もあって、最終的に撤回されたのを覚えています。

クラス替えは毎年行われましたが、2年・3年のクラスメイトが全員男子という男子校並みの不幸な目にあった私にとって、1年3ホームは特別な思い出があります。
そんなクラスメートと恩師にお会いできるのが楽しみです。
びっくりしたのは、H先生(1年3ホーム担任)、O先生(2年10ホーム担任)、K先生(3年9ホーム担任)が参加されることです。
恩師の参加者5人の中で3人が各学年のクラス担任とは・・・・・・・。
当時もよい子でしたが、昔話はそこそこにおとなしくしていることにしましょう。
 

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