伊佐屋物語 三代話 編
三題噺ならぬ三代話とは、我が伊佐屋は一族の本家となり、私の曾祖父治郎市は長男でしたが、祖父秀蔵は6人兄弟の3男で家督を継ぎ、父素は9人兄弟の3男で継承、私が4人兄弟の2男で家を継いでいます。
戦後生まれの私はともかく、長子が家督相続するのが制度化されていた旧民法時代から、夭折など無しに3代続いて長子が家督を相続していない珍しいケースです。
三木医院(出石町本町・明治30年)
曾祖父治郎市の代、長男源吉は、医者になりたくて家出して県立長崎医学校(現長崎大学医学部)で勉強し、医師免許を取得して出石町で開業しました。その後子供3人を病で失い、夫婦とも病となり家系が絶えました。
当主の源吉が医者になって家を出たことで、伊佐屋は3男秀蔵(私の祖父)が家督を継ぎました。
当時次男久吉は養子に乞われ、3男秀蔵にお鉢が回ってきたのです。4男貞治家は病で断絶、5男彌市は旧制豊岡中学校2期生、日露戦争に将校として従軍し府中小前の凱旋記念柱に名が刻まれています。こちらの三木家は関東、関西でそれぞれ活躍されています。
祖父秀蔵の代、長男治秀が祖父と折り合いが悪かったのと、進取気鋭の人でもあり、昭和5年ブラジルに移民として渡りました。移民奨励策に応じたものの、聞くと見るのでは大きく違い、艱難辛苦して成功を収めました。3人の従兄弟もそれぞれ家族をもうけ、いまでは3世が家族の中心となり4世まで繋がっています。ジェットパイロットで活躍するM君もブラジル娘さんと結婚して女の子ができました。
2男伊和夫は愛知県で教師をしていましたが、日中戦争で1938年(昭和14年)に戦死、4男薫も戦死、5男進も病死し、生き残った3男の父素にお鉢が回ってきました。(この経緯は→「伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅱ」 をクリックしてご覧ください。左端の「←」ボタンで、もとの記事に戻ります)
父素の代、長男である兄が神戸に居るのですが、仕事の関係で帰郷がままならぬことがネックとなりました。こちらは2代続いた「反骨」とはならず、謹厳な銀行員でした。いろいろ相談のうえ、娘2の健康のこともあって2男の私がUターンして伊佐屋を継ぐこととなりました。
父は3代続いて長子相続でないことを気にして、家を建てかえるとき、井戸に責任をなすりつけ「長男不利の井戸」として、神主さんに祈祷をお願いしていました。
伊佐屋三木家系図(甥M君作成)
私の代、子は娘2人、2人とも結婚してそれぞれ別姓になって都市部に住んでいます。
今度は長子どころか家督継承そのものができなくなる可能性が出てきました。(井戸へのお祈りは効かないのでしょうか?)
少子化、社会の変化・ライフスタイルの変化など、これからはこんな話は珍しく無くなってくるでしょうね。
個人情報と言っても、遠い過去の話であり、家族や一族の方々に知ってもらいたいと思い纏めました。戦後新民法が制定されるまでは家父長によって統率さ れる時代であり、男中心の話になりました。