伊佐屋物語

2024年2月 4日 (日)

伊佐屋物語 三代話 編

三題噺ならぬ三代話とは、我が伊佐屋は一族の本家となり、私の曾祖父治郎市は長男でしたが、祖父秀蔵は6人兄弟の3男で家督を継ぎ、父素は9人兄弟の3男で継承、私が4人兄弟の2男で家を継いでいます。
戦後生まれの私はともかく、長子が家督相続するのが制度化されていた旧民法時代から、夭折など無しに3代続いて長子が家督を相続していない珍しいケースです。

三木医院(出石町本町・明治30年)
Photo_20240204091101 曾祖父治郎市の代、長男源吉は、医者になりたくて家出して県立長崎医学校(現長崎大学医学部)で勉強し、医師免許を取得して出石町で開業しました。その後子供3人を病で失い、夫婦とも病となり家系が絶えました。

当主の源吉が医者になって家を出たことで、伊佐屋は3男秀蔵(私の祖父)が家督を継ぎました。
当時次男久吉は養子に乞われ、3男秀蔵にお鉢が回ってきたのです。4男貞治家は病で断絶、5男彌市は旧制豊岡中学校2期生、日露戦争に将校として従軍し府中小前の凱旋記念柱に名が刻まれています。こちらの三木家は関東、関西でそれぞれ活躍されています。

祖父秀蔵の代、長男治秀が祖父と折り合いが悪かったのと、進取気鋭の人でもあり、昭和5年ブラジルに移民として渡りました。移民奨励策に応じたものの、聞くと見るのでは大きく違い、艱難辛苦して成功を収めました。3人の従兄弟もそれぞれ家族をもうけ、いまでは3世が家族の中心となり4世まで繋がっています。ジェットパイロットで活躍するM君もブラジル娘さんと結婚して女の子ができました。

2男伊和夫は愛知県で教師をしていましたが、日中戦争で1938年(昭和14年)に戦死、4男薫も戦死、5男進も病死し、生き残った3男の父素にお鉢が回ってきました。(この経緯は→「伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅱ」 をクリックしてご覧ください。左端の「←」ボタンで、もとの記事に戻ります)

父素の代
、長男である兄が神戸に居るのですが、仕事の関係で帰郷がままならぬことがネックとなりました。こちらは2代続いた「反骨」とはならず、謹厳な銀行員でした。いろいろ相談のうえ、娘2の健康のこともあって2男の私がUターンして伊佐屋を継ぐこととなりました。

父は3代続いて長子相続でないことを気にして、家を建てかえるとき、井戸に責任をなすりつけ「長男不利の井戸」として、神主さんに祈祷をお願いしていました。

伊佐屋三木家系図(甥M君作成)
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私の代、子は娘2人、2人とも結婚してそれぞれ別姓になって都市部に住んでいます。
今度は長子どころか家督継承そのものができなくなる可能性が出てきました。(井戸へのお祈りは効かないのでしょうか?)
少子化、社会の変化・ライフスタイルの変化など、これからはこんな話は珍しく無くなってくるでしょうね。
個人情報と言っても、遠い過去の話であり、家族や一族の方々に知ってもらいたいと思い纏めました。戦後新民法が制定されるまでは家父長によって統率さ れる時代であり、男中心の話になりました。

 

   

2024年2月 3日 (土)

伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅱ

軍国主義の時代が終わり、民主主義国家となった時期に生まれ、平和主義、国民主権、基本的人権が中心の憲法が制定されました。
同じ歳生まれの日本国憲法を活かし、9条を守ることを考えれば、反戦平和・社会正義を希求する立場になります。
ただ、ほかに伊佐屋三木家の悲しい物語があります。

伊佐屋家 戦没者二柱
Photo_20240203132501満州事変1931年(昭和6年)から始まって、支那事変(昭和12年)へと、日本と中国(中華民国)全面的な戦争状態に突入しました。
日本の中国侵略が、盧溝橋事件を経て自衛を口実に中国全土に拡大したです。
1938年(昭和13年)に4男の叔父薫24歳が、翌年に2男の伯父伊和夫29歳が、続いて中国戦線で戦死しています。

墓石の文章では、国府村吏員だった薫叔父が、中国山西省霊石縣呉家山頭で、戦闘中迫撃砲が命中して戦死しています。
東京大学農学部付属教員養成所(3年制)で学び、農業学校教員だった伊和夫伯父が、中国河北省易縣西方山地で、「匪賊」との激戦で戦死しています。
そのほか、5男進が1941年(昭和16年)に、23歳で結核によって病死しています。進叔父は旧制豊岡中学校を卒業後三菱造船所の設計課に勤務中、結核に罹患して伊佐屋に戻りました。
母たみの手厚い看護も及ばず、1941年(昭和16年)1月に死去、たみも看病で結核に感染し、追うように同年11月に病死しています。
1つの家で2人が続いて戦死し、もう1人も厳しい造船所勤務で結核に罹って家に帰されるのはある意味職場における「戦死」のようなもので、さらに看病の母も結核で亡くなるという悲しい伊佐屋家の物語です。

3男である私の父素は、商社勤務地である中国で招集されたものの、幸運にも生き残り伊佐屋に帰郷し後を継ぎました。
祖父秀蔵は復員した父に、「しいらが帰ってきた」とつぶやいたそうです。「しいら」(粃米)で、未熟米のことを表します。また、「しいら」は、当時安くて美味しくない魚と言われていて、このことかも知れません。いずれもひどい言葉です。

次男は兵庫蚕糸学校(現八鹿高等学校)から東大農学部教員養成所、5男は旧制豊岡中学校に進みましたが、3男の父は高等小学校(今の中学校)を出て、知り合いの瀬戸市の陶器所や大阪の印刷所に丁稚奉公しています。本音ではないでしょうが、期待の子を次々と亡くし、戦争を生きのびてやっと帰ってきた息子に対し、不器用な言い方で迎えた祖父の心は複雑なものだったのでしょう。

父は中国で綿花買い付けを行なっていた親戚に誘われて、大陸に渡り、済南・青島に勤務し、開封支店の責任者を務めて現地で召集されています。部隊勤務でも「支那語」が堪能だったので重宝されたそうです。

アジア太平洋戦争で、大空襲・沖縄戦・原爆と類を見ない戦禍は幾つもあるでしょう。
しかし昭和13年から16年にかけて家族4人を失うことになった伊佐屋の悲しい物語を知るにつけ、戦争への憎しみ、平和を求める心が強くなるのは当然です。


 

 

2024年2月 2日 (金)

伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅰ

ブログの左端に「プロフィール」の項目があります。
文字どおりブログ作成者の自己紹介が書いてあります。私の場合は、加えて自分の平和への思いを書いています。

プロフィール
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平和への思いが強いのは、大学入学が1966年(昭和41年)で、アメリカによるベトナム侵略・安保改定・沖縄返還・大学紛争など政治的エポックを通じて、社会を考えた団塊世代でした。

当時は60年に結ばれた日米安全保障条約(日米安保)の改定期でもあり、その上沖縄県はまだアメリカの占領下にありました。
戦後27年間日本国憲法が適用されず、立法・行政・司法といった施政権は米国が握っていたのです。現在も、全国の米軍専用施設の7割が、国土面積の0・6%しかない沖縄に集中するなど、復帰時の問題は残されたままです。
それどころか日本政府がアメリカの対中軍事政策の片棒を担ぐことで、有事の際の最前線基地の役割が大きくなっています。

仮想敵国(中国・北朝鮮・ロシア)をつくり、侵攻に対する「抑止力」がアメリカ軍であり、日本の軍事力強化である。という考えは危険です。
矛盾の語源である「矛と楯」、我々は昭和の歴史でそれを学んだはずです。
「軍事には軍事」、「力には力」で対抗するのではなく、憲法9条の精神を守り、平和を願う外交努力による道を求めます。

 

2024年1月 1日 (月)

伊佐屋のお正月

2024年は昨年と同様に老夫婦2人で過ごすことになりました。
娘2に続き娘1の子が、高校3年生で受験を迎えることもあります。

伊佐屋正月のルーティンは、まず全員揃って神棚に向かってお参り、次に仏壇の仏様にお参りします。
ここで、一休みしてお屠蘇やお雑煮を頂きます。

神棚 & 仏壇
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次に三木家のお墓にお参りします。最後に府市場区の氏神様の伊智神社にお参りして元旦のお祀り行事を終えます。
正月にお墓参り?と考えるのか、お墓にお花を供えているのは2割程度です。なによりも身近で大切なご先祖様がおわす地です。

伊佐屋家墓地 & 村社・伊智神社
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本来なら、檀那寺の福成寺へのお参りがあるのですが、10km離れた出石町にあって元旦だけの受付なので後日に延ばします。
但馬の國一宮である出石神社には久しくお参りしたことはありません。
我が家の神様と仏様、府市場区の氏神様にお参りするのが伊佐屋スタイルです。



  

2023年3月 3日 (金)

伊佐屋のひな祭り

今日3月3日は桃の節句、雛(ひな)を飾ったり、お供えをして子の健やかな成長を祈ります。
当地では5月5日端午の節句と同じく一月遅れでお祝いしますが、都市部に住んでいる長女と次女からLINEでひな飾りの様子が届きました。

長女・孫3宅 & 次女・孫1宅
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どちらも、嫁さんの手作りちりめん細工のひな飾りで、10数年前の作品です。
都市部に住んでいる両家にはコンパクトで場所や時間が節約できて喜ばれます。
我が家は向かって右にお殿様を飾る京風です。

伊佐屋宅にある長女・次女のひな飾り
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こちらは1974年(昭和49年)に長女が生まれたとき、嫁さんの実家から送ってもらいました。
7段飾りの豪華版で、当時は3Kの公団住宅に飾ると1室を占拠しました。

但馬にUターン後は床の間を背にして、娘二人が嬉しそうに飾っていました。
規模や形は変わっても、孫のしあわせを願うジジババのプレゼントです。











  

 

2022年8月13日 (土)

2022 お盆と庭の草花

お盆になりました。歩いて7~8分の府市場共同墓地まで、家族揃ってお墓参りします。
亡き父は浴衣に着替え、手に数珠と線香を持ち、墓前で線香に火をつけて家族に配りました。

お墓から戻ると、仏間で父の先達で浄土真宗の「正信偈」を約30分間お勤めさせられました。
その間に母が、盆団子やご馳走を居間のテーブルに用意していました。
お腹が空いた子供たちにとって、ご馳走を尻目になんとも辛い「勤行」でした。
終わりの4行、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」が待ち遠しかったこと・・・・。

当代になって、短パンにTシャツ、スリッパ履きのラフな服装と、仏壇では「南無阿弥陀仏」の念仏だけで、「正信偈」は割愛させていただいています。

府市場区には村の中に100区画の共同墓地が集まっていて、お参り時刻となると里帰りの家族との挨拶も交わされます。
コロナ元年の静かなお盆」と違って、今年は里帰りが多く感じられます。かく言う我が家も、娘1の家族4人と15日には娘2がお参りに来てくれます。

お墓に近い花畑に夏の花が揃いました。

ヒオウギ & リアトリス
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ヤナギハナガサ & ヒャクニチソウ
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センニチコウ & キバナコスモス
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オミナエシ & カワラナデシコ
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ルドベキア
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2022年4月 3日 (日)

2022 伊佐屋のひな祭り

春休みで高2の孫2君と中1の孫3ちゃんが、我が家に来てくれました。
それぞれワクチン接種のうえ、PCR陰性証明をとってきました。
もう一人孫1ちゃんは、高校3年生となるので、来春の受験が終わるまで伊佐屋へ来るのは辛抱するそうです。

我が夫婦には娘が二人、長女が生まれたとき嫁さんの里が、ひな飾りを送ってくれました。団地住まいなので、できるだけコンパクトなものをと頼んだにもかかわらず、送られてきたのは7段40号の豪華版でした。 (^_^;)

 Uターン前の住宅公団は3Kに住んでいて、飾ると一部屋が使えなくなって不自由しました。
地方で雪国の当地は、桃の節句も端午の節句も1ヶ月遅れです。

ひな壇の組み立てと飾りつけ
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久しぶりなのでひな壇の組み立てに時間がかかったものの、4人総掛かりで2時間で飾り付けが終わりました。
このひな飾りも購入からもうすぐ半世紀が経つのです。

京風並びのお内裏様 & 孫たち
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2022年1月 1日 (土)

2021 謹賀新年

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今年いただいた年賀状に「ブログ見てるよ」との励ましのお言葉がありました。
以前のような馬力はありませんが、これからもぼちぼち続けていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

2021年1月 3日 (日)

昭和30年代の積雪写真

積雪の写真がないかアルバムを探してみると2枚ありました。
たぶん昭和32~33年、小学2~3年生(10歳)頃だと思います。

6歳違いの兄とツーショット ポーズをとる坊ちゃん刈りの伊佐屋くん
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左の写真は、昔の母屋の屋根に登って撮ったもののようで、兄が背中を持ってくれていても顔が引きつっています。
6歳違いの兄は戦時に使われた「防空頭巾(ずきん)」、伊佐屋君は耳当てがついたハイカラな「スキー帽」をかぶっています。
靴はゴムの長靴で、藁で編んだ雪靴はこの頃には姿を消しました。

積雪で居室の戸が開きにくくなれば、雪下ろしのサインです。
いまは降っては溶け、溶けたら降るの繰り返しで、屋根の雪下ろし風景は山間部でも見られなくなりました。

寒くて冷たい但馬の冬も、居間の掘りごたつで暖まり、長火鉢でかき餅や干し芋を焼いて食べるのが楽しみでした。
寝るころには、母が豆炭行火(あんか)を用意してくれていて、それぞれ十の字になって重たい木綿布団に潜り込んで寝ました。

 

 

 

 

       

2020年8月13日 (木)

コロナ元年 静かなお盆

お盆が始まりました。
墓参りや帰省が「自主規制」され、区内や近所に子や孫連れがほとんど見られなくなりました。
我が家も娘1と娘2の両家族とも、自粛による取りやめを告げてきました。
私たち夫婦とも70歳を越え重症化しやすいことを考え、都市部からの持ち込みを懸念したものです。

昨年は中学生の孫2君が、横浜から6日に来て、今それを聞いて高校受験生である京都の孫1ちゃんが遊びに来てくれました。
それぞれ朝のうちに課題をしっかり済ませ、オンライン学習も怠らず、家に居るより能率が上がったようでした。
そのお陰か孫1ちゃんは受験した4校すべてに合格し、志望校に進むことが出来ました。

例年ならお墓参り、海水浴、伊佐屋バーベキューに花火、夜のトランプや花札・麻雀ゲーム(ポンジャン)など一日中賑わっていました。
夫婦二人だけの静かなお盆は、U-ターン後初めての経験です。

伊佐屋三木家 墓地
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ハルのお墓
Dsc_0015_20200814073401 17日は兄と妹夫婦がお墓参りに来てくれます。
叔父と伯父2人は日中戦争で戦死、異父姉と祖父と祖母は私が生まれる前に亡くなっていて、生活を共にした仏は両親とイヌの「晋平」と「ハル」だけです。

 

ハルが亡くなって、場所も晋平の近くの、江戸中期(享保)の年が入った最古の墓石の奧に埋葬してやりました。
コロナ騒動が早く収束して、例年通りの賑やかなお盆を迎えたいものです。


 

 

 

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