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九条の会

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suzuran写真館とミッキーの手まり

伊佐屋物語

2017年4月 2日 (日)

終活準備 図書整理編

70歳近くなると身辺の整理を考えるようになります。

あの世には持って行けないし、残された者にとってありがた迷惑な物がほとんどです。
残念ながらお荷物とならないお金は残せそうにありません。
昨年ゴミ焼却場が遠くに移転するのを契機に、思い出だけは残して軽トラック3杯分の父母の荷物を処分しました。
物が大切な時代だったので、捨てることができなかったのでしょう。
 
代表的資産であった田地・田畑・家屋敷(でんちでんばたいえやしき)、そして墓地が、管理する人がいなくて負の遺産となる時代です。
ましてや個人的趣味である書物などは、特に始末に困るものです。
 
そんな折、山友のMさんが友人たちと古民家を利用した古本屋を計画していると聞きました。
出石に活字文化を育てたいのとサロン的な雰囲気にして、気楽に立ち寄って文化的時間を過ごしてもらいたいとのお気持ちのようです。
「渡りに船」とばかりに古本の提供を申し出て、3月から整理したのが段ボール15箱になり、7段2連式の書架も合わせて引き取って頂くことになりました。
 
空になった書架               古本の山
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学生時代から買い集めた図書で、小説のほか専門の社会科学分野が多く、恥ずかしながらほとんど目を通していないものもあります。
仕事をリタイアしたときに、これからは「晴耕雨読」などと広言しましたが、時間はあるものの悲しいかな知的探求心と根気が薄れてしまいました。
「あれもこれも読まないといけない」という義務感も腰が引ける原因でしょう。
 
結局は読みたい本を読みたいときに読むには、図書館を利用するのが一番の方法であると気づきました。
パソコンやスマホによる検索や予約・申込みも便利で、2週間という貸し出し期間もほどよく感じられます。
 
古書市場には変色したり染みがあるものはダメ、何よりも書籍の戸籍であるISBNコードがない図書は引き取らないのが通常です。
Mさんからそんな図書でも引き取ると言って頂きました。
売れ筋だけの陳列ではボリューム感が出ませんし、「枯れ木も山の賑わい」として活用して頂けるようです。
条件は「1円もお支払いせずに、1円も頂かない」お約束です。
 
空いたスペースを見ると、残された人に迷惑をかけることがなくなった安心感と、知的存在?が無くなった寂しさを感じます。
ま、すぐに慣れるでしょう。
 
 
 

2016年8月23日 (火)

2016 伊佐屋夏物語

夏休みとお盆休暇を利用して、お墓参りに娘家族が帰ってきました。
それぞれ4泊~5泊で田舎生活を体験して帰りました。
海・山・川で遊び新鮮野菜に果物をしっかり食べて、子供たちは豊かな自然を満喫したことでしょう。
 
             京丹後市小天橋海水浴場
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            伊佐屋多目的広場のBBQ 
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             久須部川の「滑床」で川遊び
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             最後の夜は大花火大会
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8畳二間をぶち抜いて騒ぎまわったり、居間は夏休みの宿題や自主勉強で占拠されます。
 
「孫有り 遠方より来たる 来てよし、帰ってよし」
 
爺々も去年まで海でも川でも一緒に遊んでやりましたが、守り役としてのお役はご免となり、案内人兼運転手か留守番役を仰せつかるようになりました。
 
 
 

2016年8月16日 (火)

戦没兵士の手紙  伊佐屋物語

昨日の記事で伯父・叔父の戦死に触れました。
伊佐屋四男 薫 昭和13年 2月23日 北支(中国北部)山西省 保定にて戦死
伊佐屋次男 伊和夫 昭和14年 5月20日 北支(中国北部)河北省 石家荘にて戦死。
(珍しいことに長男は昭和5年、ブラジルに移民として渡っています)
 
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戦地から妻や父母に宛てた手紙が残っています。
次男でありながら跡を継ぐことになり、愛知県大府で教員をしていた伊和夫伯父の手紙に戦地で詠んだ詩が添えられています。
 
将校でもあり、反戦と言うほどでもないので軍事郵便の検閲もされなかったのでしょう。。
東洋鬼(トンヤンクイ)、日本鬼子(リーベングイズ)と呼ばれ中国人に怖れ憎まれた日本軍人も個人としては優しく家族思いで非戦の心を持っていたことがわかります。




(避難民)

姑娘(くーにゃん)哀れ 老婆と共に
紅色の夜具を抱えて何処まで逃げる
麦畑ははろばろ雲まで続き
曠野は凍り凩荒ぶ
短き髪も千々に乱れて
さんさんと憂ひの顔にふりかかる
今宵の宿 明日の糧
縁者は遠く 黄昏せまる
心迷ひて後ふり向けば 
鼻を鳴らして飼犬続く
日軍迫れば匪徒(フェイトー)散れども
日軍去れば匪徒また来る
痛々し!彼女等の胸に
温かき春の女神の訪れるのは
いついつの日か!!
 
(子供)

母親に抱かれたる
支那の幼き子供
来々と手をさし向けば
微笑みもて母親は渡しくる
無表情なれど怖れもせずに
まじまじと吾がひげ面を視まもる
笑え笑えとゆすり居れば
妻と共に留守居せる
吾が子偲ばれ
不覚なり 泪頬に溢れんとする
 
 

2016年8月15日 (月)

戦後71年 敗戦の日

8月15日はアジア・太平洋戦争の終戦記念日とされ、戦没者追悼行事が行われます。

ところが15日は天皇が日本国民に向けてラジオ放送された日でしかなく、日本政府がポツダム宣言受諾を英米に回答したのは8月14日とされます。
無条件降伏を受け入れた大日本帝国の敗北は、絶対主義天皇制と日本軍国主義の敗北で、単なる「終戦」ではなく正確に「敗戦」と呼ばれるのが筋だと思います。
国際的には降伏文書が調印された9月2日が連合国の「戦勝記念日」と設定されています。
 
それはともかくこの戦争でアジア・太平洋地域で2,000万人以上、日本国民も310万人の死者がでています。
 
伯父と叔父の墓碑
P8120140_2 私の家でも、日中戦争の最中13年と14年に、伯父と叔父の二人を中国大陸で失いました。
戦死も初期だったことで、地区を挙げての慰霊を受け、妻は「靖国の妻」、祖父母は2人の息子をお国に捧げた「靖国の父と母」として、靖国神社臨時大祭に招かれています。
府市場区墓地の中でひときわ立派な墓碑が並び立っていて、子供の頃は誇らしくもありました。
 
一軒の家に2人、13年と14年に連続しているのはまれで、残された妻と幼な子、父母の秀蔵・民恵の悲しみは想像を絶するものでしょう。
授与された勲章や靖国の英霊としての扱いも、戦死の悲哀が誉れに替わるはずはありません。
 
敗戦から71年、アジア諸国への「植民地支配と侵略」の歴史から学ぼうとせず、再び「富国強兵」の道を歩もうとする安倍政治に強い危惧を抱きます。
また最近の若者の認識にも中国や朝鮮などに対する「嫌・反・憎」の気運が目立つようになりました。
中学・高校の歴史の授業は明治で時間切れ、口では反省を唱えながら昭和の歴史をほとんど教えてこなかった責任も重大です。
 
排外・愛国を強調し強い国を目指すトランプはアメリカだけに居るのではなく、日本にもいま育ちつつあることに不安を覚えるのは私だけではないでしょう。
 
 

2016年5月 3日 (火)

2016 伊佐屋春物語 GW編

GWを利用して横浜に住む孫2と孫3が「JALキッズおでかけサポート」を利用して二人旅でやってきました。

但馬空港夕方便で到着(降機は一番あと)                

20160429_175433_2孫2は小1のとき利用したことはありますが、今年小1になったばかりの孫3は初めての体験です。
少し心配しましたが「ニイ君」と一緒なので心強かったのでしょう。
空港で顔を見ると笑顔で元気よく挨拶できました。

羽田から乗り継ぎ但馬へ、但馬から大阪へ、それぞれ滞在後に羽田空港へ帰る6泊7日の長旅です。
「可愛い子には旅をさせよ」といいますが、この経験は孫2と孫3には忘れられない思い出になるでしょう。

岡山の孫1は電車しか手段がなく、一人旅はまだ無理なので、ママと一緒にやってきました。
3人揃うのは去年の夏休み以来で、さっそく家の中を走り回っています。

初日の予定は、神河町にあるヨーデルの森で遊びました。
森や川に囲まれた農村体験施設で、遊具で遊びいろいろな動物たちとふれあいながら一日楽しめます。
二日目は国史跡「此隅城跡」を訪ね、麓にあるいずし古代学習館で古墳や中世の城を学びました。
歴史好きな孫2は竹田城跡に行きたかったのですが、まずは山名氏の本拠地、小規模ながら山城遺構がわかりやすい此隅城跡を勧めました。

ヨーデルの森(アクアボールの3孫)    此隅城跡
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いずし古代学習館展示パネル  こうもり塚古墳
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両日とも快晴のお天気、此隅城跡探訪でかいた汗を温泉で流し、仕上げは養父市大藪の古墳群の「禁裡塚古墳」「こうもり塚古墳」の現地見学でした。
最後の夜は3孫と爺婆の5人で、七並べ・ばば抜き・ウスノロのトランプゲームや伊佐屋坊主めくりで盛り上がりました。

午前便で大阪空港へ(乗機はシニアについで優先)

20160502_100032_2
次は大阪で待つ婿殿のご両親にバトンタッチです。
そこで2泊したあと大阪空港(伊丹)から羽田に向かい父母の出迎えを受けます。
それぞれ空港で迎えて、もてなして送りだす役もなかなか大変ですが、孫達にとって忘れられない楽しい大冒険になったことでしょう。
 
空港で会った親戚のKさんが伊丹経由で羽田まで行くとのこと。
こちらは初めての搭乗かつ後期高齢者でもあり「シニアおでかけサポート」を利用されました。
キッズといいシニアといい便利で安心なサービスがありますね。


<おまけ話>
 
来るときは29日の夕方便でしたが、前日の夕方便は機材の故障で欠航でした。
帰りの大阪空港便は快晴の中予定どおりのフライトでしたが、なんと翌日3日は台風並みの強風が吹き荒れ全便欠航でした。
往路復路とも僅か一日違いの綱渡りフライトです。
欠航であれば大阪まで代替輸送のバスで約3時間、子供たちの負担を考えると、欠航リスクも考えておく必要があります。
 

2016年2月10日 (水)

寒餅 かき餅

節分頃がもっとも寒く、この時期に餅をつきます。
太平洋側と違い湿気が少ないわけではないのですが、寒さでよく乾きカビが生えないことやかき餅は子供達のおやつになります。

おやつのことを当地では「ええもん」と言い、学校から帰ってくると「なんかええもんおくれ」と母親にねだります。
すると一斗缶から焼いたかき餅が出てくることがありました。

 かき餅考 2008年  冬の夜 2012年  をクリックでどうぞ


薄く切ったかき餅             広げて乾かす
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昔は玄関を入った「店」に縄で編んで吊していましたが、いまは使わない部屋で網戸を置き新聞紙に並べて乾かします。
外からの風や陽にあたると反ったり割れたりするので、カーテンは締めたままにします。
途中裏返して1ヶ月もするとできあがります。
家族が減り寒餅・かき餅を作り家も少なくなりました。
我が家も海老、海苔、黒豆、昆布、黒砂糖の5種を、餅とかき餅に分けます。

神鍋高原道の駅で販売しているかき餅の記事が出ていました。
万場のTさん、カーテンを閉めた部屋でしっかり乾かして、油で揚げずにオーブントースターで焼いて仕上げます。
味はともかく我が家も製法は名人と一緒でした。

2015年12月29日 (火)

迎春準備 餅つき話

暮れの餅つきは迎春準備に欠かせません。
嫁さんの実家から届いた餅米に我が家で採れた小豆や白豆の餡が入った餡餅や海苔、海老、黒豆、昆布の五目餅、あわせて7臼を搗き(捏ね)あげました。

子供の頃は土間に臼を置き、竈で薪を使ってせいろで蒸し上げた餅米を移して杵で搗いていました。
まずは「小突き」といって杵で餅米を潰す作業に時間をかけ、そのあと搗き始めます。
片や手水と言っていましたが、餅の返し手を務めるのが母でした。
返し手はなるべく杵とりと離れないところに位置する「位置取り」も父のこだわりでした。
我が家の杵は重かったので、私が試しに搗いても手に合う代物ではありませんでした。
子供達は掘りコタツから首だけ出して搗きあがるのを待って、麺板の上で父が丸めてくれたものを頬張っていました。
搗く前に缶入りの食紅を加えると、見事な赤餅ができあがります。
麺板の上で餅を丸めたり、なまこ形や板状に伸ばしたり、餅花をつくったり菓子屋のせがれだった父の業は見事でした。
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我が家に餅つき器(餅捏ね専用器)が登場したのが昭和48年頃で、平成6年購入の二代目は蒸し捏ね両方ができる便利なもので、角形に切る餅切り機も早くから購入、丸餅専用の「まる餅くん」も数年前に購入しました。
菓子舗伊佐屋は戦後廃業したので、伊佐屋の跡継ぎたる私には業の伝承が無く、不器用を道具でカバーしながら孫や子が喜ぶ餅作りを続けています。
 
2010年の「餅つき記事」はクリックでどうぞ。
 

2015年10月 4日 (日)

我が家の報恩講

我が家の宗旨は「浄土真宗本願寺派」、いわゆる門徒と呼び、本山は西本願寺、寺は出石町福成寺に所属しています。
報恩講(ほうおんこう)は、開祖・親鸞聖人の命日11月28日を中心にして、聖人の徳をたたえ、「恩 」 に報いる法要で、浄土真宗寺院及び門信徒において最も大切な行事とされています。

住職による読経              真宗のお経本
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本山や各寺院で開催されるほか、個人宅にも住職が訪れ一緒にお勤めします。
唱えるのは親鸞の著書『教行信証』の末尾に書かれている「正信偈(しょうしんげ)」。
子供の頃からお盆には父が導師となり、これが終わらないとご飯を食べさせてもらえなかったこともあって意味はともかく長年親しんできました。
お経が終わると簡単な法話があります。
今回は浄土真宗中興の祖である蓮如上人が各地の門信人に宛てた手紙、『御文章』から「末代無知の章」を取り上げられました。

同じ『御文章』に「白骨の章」があります。

こちらは原爆を扱った中沢啓治氏のマンガ「はだしのゲン」にも登場していました。
食を得るためにゲンがニセ僧侶となって、これを読み上げます。
内容は無常について書かれていて、「朝には紅顔ありて 夕べには白骨となりぬべき身なり・・・」。

人はいつか死ぬことは誰も分かっています。
でも、その死がいつ来るのかが分からないのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀阿仏。

 

2015年9月 9日 (水)

伊佐屋菓子店のお菓子 Ⅱ

銅鍋とへら                通い帳(掛け売り記録簿
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《《《 その他作っていたもの 》》》

◎ねりきり(生菓子),落雁(干菓子)
冠婚葬祭の為に作られる事が多かった。
祝い用に、鶴(白豆を煮た餡をなべに戻し、砂糖と水で戻す。
型にはめたものに、色粉を作って彩色する)、亀、鯛などが
作られた。
法事用に、蓮、大根、椎茸等、その他秋には菊も作られた。
菊は箸を下から挿し、まわしながら切り目を入れる。
黄色く色付けしたものをスノコに通して、花の芯に乗せて
作られた。
これを作る時は、よく「べろべろ」という民謡を歌いながら
作っていたとか。
ちなみに秀子おばさんは観世流の浪曲をよく聞いた。

◎さらし飴
もち米から作った飴。
直径2,3cmのこの飴を口に入れると、口の熱でほろほろと
とけて、水分が加わるとしわしわとなっていく。
昭和1桁の当時で、3個を1銭で売っていた。

◎かち割飴
麦芽糖を1斗缶買ってきて、煮て作る。
最後に水を入れるのがコツだった。
7月末に土居の氏神である川濯(かわすそ)さんにお参りに
来る人によく売れた。
鉄のみでかち割って売るこの飴は、べっ甲飴よりネチネチと
していた。

◎きな粉のねじり飴
〈作り方〉
1、水あめをとろ火で焦がさない様に煮る。
2.熱くした、きな粉を混ぜる。
3.薄く延ばして、堅くならない内に細く切り、両端を持って
  半回転させる。

◎金太郎飴
 言わずと知れた、切っても切っても同じ模様が出てくる飴。

◎カステラ
カステラの流し箱はあったのだが、土地の人の口に合わないのか
店頭に並ぶ事は無かった。残念!

《《《 問屋から取り寄せて売っていたもの 》》》

缶で取り寄せ、計り売りされたもの。
◎菊煎餅
菊の型した生地を、乾く前に柔らかめに半分折り返した煎餅。

◎胡麻煎餅
小麦粉、水、そしておそらく卵を入れてよく練ったものに、煎り胡麻
を入れて作った煎餅。店頭にたくさん吊り下げられた。

◎さざなみ
もち米が入ったような粉でできており、少し塩味だが、雪を被った
程度に砂糖を被っている。
真中に線があって、割る事ができる。

伊佐屋菓子店も含めた手辺村の様子は国府村府市場に生まれ、豊岡で印刷業を営み、昭和21年佐賀県伊万里市へ転居された菅村駅一さんの著書
匂うふるさと 手辺村繁盛記 に書かれています。

伊佐屋三木のblogにも記事にしているので、クリックしてご覧ください。 

匂うふるさと 伊佐屋菓子店 Ⅰ

匂うふるさと 伊佐屋菓子店 Ⅱ

※注

<太字の言葉をクリックしていただければ、それぞれの記事に移ることができ、画面左上の戻るボタン(←)で元の記事に戻ります>

 

 

2015年9月 8日 (火)

伊佐屋菓子店のお菓子 Ⅰ

東京都に住む父の妹である叔母さんが91歳で亡くなりました。
菓子店を営んでいた祖父秀蔵の子供9人の末っ子で、昭和24年に嫁に行くまでの10年間、兄二人の戦死と結核によって病死したもう一人の兄、そして自分の母と父の5人を自宅で見送った苦労人でした。

昭和20年に店を閉めた伊佐屋菓子店を知る生き証人で、2000年に当時の話を聞く機会がありました。
当時甥が纏めてくれたものが出てきたので、2回に分けて記録しておきます。
            
伊佐屋菓子店(虫籠窓にうだつ)    軒下にぶら下がっていた看板
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《《《 伊佐屋の売れ筋・三大商品 》》》

◎松露糖(ショウロトウ)
〈作り方〉
1.こした小豆の餡に少し水飴をよく練る。
2.小さく切ったものを、手で丸める。
3.乾かしたものに、砂糖・ハッカを混ぜて液状にした物をつける。
4.ホイロ
(焙炉)下から炭をたいて、乾かして出来上がり。
  ホイロとは、簀(スノコ)でできた木枠の棚のこと。

ちょっとデベソのような形の、この菓子が大変よく売れたとか。

◎羊羹(ヨウカン)
〈作り方〉
1.寒天をよく溶かす。
2.ビルマから取り寄せた豆(白色でささげまめに似ている)を
  食紅で色をつけよく煮る。(その他材料は不明)
3.【ここがポイント】混ぜ合わせた材料をよく火を通しよく練る。
  すくってみて、材料が垂れるようになったら火を止める。  
4.おおよそ、横26cm×縦75cm×高さ3.5cmのブリキ製の
  流し箱をあらかじめ菜種油に馴染ませておき、材料を入れる。
5.できあがった羊羹は、その都度切って計り売りにし、
  モウソウ竹の皮で包む。
  このモウソウ竹の皮は砂糖と物物交換によって入手し、
  いつもは三つ折りで乾かしてあるが、使うときに濡らして
  広げて使う。
  包み方は、1枚の竹の皮に羊羹を載せる。
  初めに長い方の両端を折り返し、次に残った弧の部分を
  内側に織り込む。
  そして竹の皮でできた紐でぐるっと結び、紐の間に商標を
  表面と裏面に入れる。
  表面は「練り羊羹」と書かれていたものと思われる。
  裏面は「但馬の国 府中 三木精栄堂」と書かれていた。

よく火を通してあるので、カビが来なかったとか。
遠くブラジルやアメリカへ移民していった人達への贈り物として、
届けられたりもした。

飴が1銭で買えるのに対し、羊羹は50銭もする高級品だったが、
秀蔵曾爺さんは時々子供たちに食べさせることを許したとか。
そんな時秀子おばさんは、わざと斜めに包丁を入れ「真っ直ぐに
する為に」ともう一度包丁を入れて、より大きく羊羹をもらうのが
いつもの作戦だった。
もちろん、秀蔵さんはそれがわざとである事は知っていたが、
目をつぶっていたそうだ。

ちなみに秀子おばさん曰く、東京で有名な「とらや」の羊羹が
よく似ていて、とらやの羊羹より美味しかったそうだ。

◎巻き煎餅
〈作り方〉
1、生地を焼く。
2、生地に泡が出てきたら飴を載せる。
3、手早くクルッ巻いて、生地で飴を包み込んだらできあがり。


   

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