伊佐屋物語

2025年8月15日 (金)

アジア・太平洋戦争終戦80年の日 (伊佐屋のアジア・太平洋戦争)

8月15日はアジア・太平洋戦争の終戦の日とされ、国を挙げて戦没者追悼行事が行われ、今年が80年目」となります。
この戦争でアジア・太平洋地域で2,000万人以上、日本国民も軍人230万人、民間人80万人、合計310万人の死者がでています。

伯父と叔父の墓碑
P8120140_2私の家でも、日中戦争の最中、昭和13年と14年に、次男伯父と四男叔父の二人を中国大陸で失いました。戦死が開戦初期だったことで、地区を挙げての慰霊を受け、妻は「靖国の妻」、祖父母は2人の息子をお国に捧げた「靖国の父と母」として、靖国神社臨時大祭に招かれています。

府市場区墓地の中でひときわ立派な墓碑が並び立っていて、子供の頃は誇らしくもありました。
四角柱に頭部が方錘型の独特な形態になっていて、柱のぐるりに出自、学歴・仕事歴、入隊の時期、軍での働き、戦死の場所など故人の歴史が刻まれています。普通は出自と応召日と部隊名、死亡日と場所だけです。これほど記録された墓石は珍しいものです。
どちらも中国大陸を転戦し、伯父は中国軍に囲まれた白兵戦で、叔父は交戦中に相手迫撃砲が命中して戦死と記しています。

一軒の家に二人、13年と14年に連続しているのは稀なことで、残された妻と幼な子、父母の悲しみは想像を絶するものでしょう。授与された勲章や靖国の英霊としての扱いも、戦死の悲哀が誉れに替わるはずはありません。
続いて16年に造船所設計技師だった五男叔父が無理な勤務がたたり、結核に罹患して養生していた但馬の自宅で亡くなり、看病していた母が結核感染して同年、後を追うことになりました。

さらに過去の病で徴兵猶予されていた三男が、18年に勤務先の中国開封で現地招集されています。幸い生きて21年4月に復員することができましたが、あわや三人目の戦死者となるところでした。おかげで私たち兄弟がこの世に生を受けることができました。

この間、20年には戦死した伯父の遺児〇子が伊佐屋家で病死しています。
祖父は子・妻・兄弟・孫と何人を見送ったことでしょう。
これが「伊佐屋のアジア・太平洋戦争」です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

敗戦から80年、アジア諸国への「植民地支配と侵略」の歴史から学ぼうとせず、再び「富国強兵」の道を歩もうとするアジア隣国敵視、対米追随の政治に強い危惧を抱きます。
また最近の若者の認識にも中国や朝鮮などに対する「嫌・反・憎」の気運が目立つようになりました。
7月の参議院選挙では、先の大戦をアジア開放のための「大東亜戦争」と呼び、国民主権の憲法を変え、核兵器の保有さえ認める参政党が14議席を得ました。
差別と排外につながる「日本人ファースト」のスローガンも、危険な考え方です。

過去の戦争いや歴史において、他国からの脅威を理由に有事体制を強め、衝突へと突き進んできました。今も戦争と名がついていませんが、世界で殺し合い、壊し合いが行われています。
関係国に自制を求めると同時に、前提条件を廃し、直接対話するのが緊張緩和の第一歩です。疑心暗鬼に駆られる際限ない戦争準備に較べてこれほど崇高な政治行為はありません。外交と政治による解決が、歴史から学ぶ唯一の手段です。

2021年に豊岡市に開学した「兵庫県立芸術文化観光専門職大学」の平田オリザ学長が、2022年の入学式辞でこう述べています。
・・・・観光は、ただ経済のためだけのものではありません。海外からたくさんの方々に日本に来ていただき、日本の多様な文化を知っていただき、そして「日本というのは素晴らしい国だなあ、こんな国とは戦争してはいけないなあ」と、世界中の多くの方々に思ってもらう。それが観光の最大の役割です。

 芸術文化も同様です。日本の芸術を海外に紹介するのは、日本人が何に悩み、何に苦しみ、何に喜んできたのかを世界の人々に伝えることにほかなりません。軍事力や経済力といった目に見える力以外に、国家が行使しうる外交力のことを「ソフトパワー」といいます。観光と芸術は、日本が有する最大のソフトパワー、安全保障の一環です。・・・・

対話を重ね交流を深める中でお互いを知り、理解することから始まります。

 

2025年1月13日 (月)

成人式いろいろ

成人を祝う日「成人の日」が制定されたのが1948年(昭和23年)だそうで、当時は1月15日、2000年(平成12年)からハッピーマンデー制度が導入され1月第2月曜日に代わりました。

< 平成 >
但馬の市町では、大学や就職で域外に出ている成人の便宜を図るため、前日の日曜日に開催されるようになりました。
成人式も学年単位が定着し、実態は卒業後最初に行う同窓会と変わりました。

合併前の旧日高町のときは、1月は雪が多くスキー場のかきいれ時と重なるため、11月3日に行われていました。
娘2人は大学生だったので、それぞれこの日に帰郷して出席しました。

「親のすね囓りの分際で振り袖は許さない。一張羅のスーツで出席しなさい」との頑固親父の一喝で、娘1はスーツで出席しました。後で写真を見るとスーツは100人超の女子の中で2~3人、少しかわいそうな気もしましたが、かえって目だってよかったかも知れません。
頑固おやじも世情にながされたのか、3歳違いの娘2はふつうに振袖を着て出席しました。

ただ、「一生に一度のこと」という言に惑わされてはいけません。人生に起こることすべてが一生に一度しかなく、成人式だけを特別扱いすることはないのです。
最近の成人の服装を観ると、女子は振り袖に白のショールで送迎付きが定番、男子はダークスーツのほか、タキシードや羽織袴が増えています。大学進学率が60%に迫るいま、費用は親の懐から出ていて、本当の意味での「巣立ち」はまだまだ先のことでしょう。

< 昭和 >
我が身を振り返ってみると、時は1967年(昭和42年)1月15日、場所は松江市民会館で成人式が行われました。
学生ながらも松江市民となっていた私は、新成人として招待されていましたが、会場入り口でベトナム反戦・沖縄返還を求めるビラを撒いてから式に出たように記憶しています。
好景気に沸く日本で、前年のビートルズ来日に浮かれることなく、国内外の社会的矛盾の深まりを懸念していたのでしょう。

当時は大学生になると未成年でも、酒やたばこはとくに制限されませんでした。入寮時の「歓迎コンパ」では、18・19歳の新入寮生がどんぶり酒を無理やり飲まされて、数キロ離れた女子寮まで「ストーム」と称して走らされました。

< 令和 >

孫1は今年で20歳。来年は孫2と続きます。
もともと京都在住なので大学から帰ってきて、京都市主催の「はたちを祝う記念式典」(京都市勧業館 みやこめっせ)に出席しました。
振り袖やスーツ、羽織袴に身を包んだ約5500人が、二部に分かれて参加したとのこと。
中学校や高校の友達と会うのが楽しみの同窓会的意味もあるようです。

誓いの言葉を述べる代表 & 振り袖姿の二十歳 (朝日新聞デジタルから)
20250114111344 20250114112155

孫1も孫2も10歳となる小学4年生で、「半分成人式」を学校で祝ってもらいました。
そういえば、80歳となると「還暦後成人式」を祝う催しをするところもあるとか。
干支が一巡する還暦で生まれ変わるのだったら、これも有りかも知れませんね。

昭和・平成・令和と、いろいろなことを考えさせられる「成人式」でした。

 

 

2025年1月 7日 (火)

2025 七草がゆ

1月7日は七草がゆを食べる風習があって季節感も感じさせ、今やスーパーに七草セットが置いてあります。
今日の朝日川柳 → 「スーパーに七草摘みて粥(かゆ)を炊く(大分県 伊藤信一郎)

春の七草は「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、これぞ七草」と覚えました。我が家は自前で手に入る「四草(種)」を入れて、お昼にいただきました。

七草(種)粥のいわれは、本来は無病息災・健康長寿だったのが、正月のご馳走で酷使した胃をいたわり休ませる説が有名です。

と同時に「鳥追い行事」の意味もあるとされます。子供の頃、父が菜を刻む時、まな板を叩いて大きな音をさせ、独特の調子で「♪唐土(とうど)の鳥が、日本の国に渡らぬうちに七草そろえ・・・・・♪」と唱えていたのを覚えています。
害鳥を追い、疫病が流行せぬことを願った厄除けの一種でしょう。


七草がゆについては、このブログの過去記事に何度か載せています

2024年の記事 → 「七草がゆと故郷めし」← クリックしてご覧ください。

2022年の記事 → 「鳥追いと七草がゆ(豊作と無病息災を願う)」← クリックしてご覧ください。



 

 

     



  

 

2025年1月 1日 (水)

2025 謹賀新年

新年おめでとうございます。
伊佐屋の2025年は、家族そろって賑やかな新年を迎えました。
迎春のルーティンは、家族そろって神様にお参りして、次に仏壇にお参りします。

神棚 & お仏壇
P1010051 P1010055
その後はおせちとお雑煮をいただき、お神酒もしっかりいただきます。

      手作りおせち(娘1と嫁さん製)
      P1010048_20250101145301
ひと段落したら、お墓のご先祖様にお参りし、産土神の伊智神社にお参りします。

伊佐屋墓地 & 産土神 伊智神社
P1010059 Horizon_0002_burst20250101121005890
心配した雪もなく、穏やかな元旦を迎えられました。

    南:妙見山 & 西:蘇武岳・神鍋山・大岡山
           Dsc_0037_20250101144201

 

 

 

 

     

2024年2月 4日 (日)

伊佐屋物語 三代話 編

三題噺ならぬ三代話とは、我が伊佐屋は一族の本家となり、私の曾祖父治郎市は長男でしたが、祖父は6人兄弟の3男で家督を継ぎ、父は9人兄弟の3男で継承、私が4人兄弟の2男で家を継いでいます。
戦後生まれの私はともかく、長子が家督相続するのが制度化されていた旧民法時代から、夭折など無しに3代続いて長子が家督を相続していない珍しいケースです。

長男の医院(出石町本町・明治30年)
Photo_20240204091101 曾祖父の代、長男は、医者になりたくて家出して県立長崎医学校(現長崎大学医学部)で勉強し、医師免許を取得して出石町で開業しました。その後子供3人を病で失い、夫婦とも病となり家系が絶えました。

当主が医者になって家を出たことで、伊佐屋は3男(私の祖父)が家督を継ぎました。
当時次男は養子に乞われ、3男にお鉢が回ってきたのです。4男家は病で断絶、5男は旧制豊岡中学校2期生、日露戦争に将校として従軍し府中小前の凱旋記念柱に名が刻まれています。こちらの家は関東、関西でそれぞれ活躍されています。

祖父の代、長男が祖父と折り合いが悪かったのと、進取気鋭の人でもあり、昭和5年ブラジルに移民として渡りました。移民奨励策に応じたものの、聞くと見るのでは大きく違い、艱難辛苦して成功を収めました。3人の従兄弟もそれぞれ家族をもうけ、いまでは3世が家族の中心となり4世まで繋がっています。ジェットパイロットで活躍するM君もブラジル娘さんと結婚して女の子ができました。

2男Iは愛知県で教師をしていましたが、日中戦争で1938年(昭和14年)に戦死、4男Kも戦死、5男Sも病死し、生き残った3男の父にお鉢が回ってきました。(この経緯は→「伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅱ」 をクリックしてご覧ください。左端の「←」ボタンで、もとの記事に戻ります)

父の代
、長男である兄が神戸に居るのですが、仕事の関係で帰郷がままならぬことがネックとなりました。こちらは2代続いた「反骨」とはならず、謹厳な銀行員でした。いろいろ相談のうえ、娘2の健康のこともあって2男の私がUターンして伊佐屋を継ぐこととなりました。

父は3代続いて長子相続でないことを気にして、家を建てかえるとき、井戸に責任をなすりつけ「長男不利の井戸」として、神主さんに祈祷をお願いしていました。

伊佐屋家系図(甥作成)
2_20240205124701  1_20240204123101

私の代、子は娘2人、2人とも結婚してそれぞれ別姓になって都市部に住んでいます。
今度は長子どころか家督継承そのものができなくなる可能性が出てきました。(井戸へのお祈りは効かないのでしょうか?)
少子化、社会の変化・ライフスタイルの変化など、これからはこんな話は珍しく無くなってくるでしょうね。
個人情報と言っても、遠い過去の話であり、家族や一族の方々に知ってもらいたいと思い纏めました。戦後新民法が制定されるまでは家父長によって統率さ れる時代であり、男中心の話になりました。

 

   

2024年2月 3日 (土)

伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅱ

軍国主義の時代が終わり、民主主義国家となった時期に生まれ、平和主義、国民主権、基本的人権が中心の憲法が制定されました。
同じ歳生まれの日本国憲法を活かし、9条を守ることを考えれば、反戦平和・社会正義を希求する立場になります。
ただ、ほかに伊佐屋三木家の悲しい物語があります。

伊佐屋家 戦没者二柱
Photo_20240203132501満州事変1931年(昭和6年)から始まって、支那事変(昭和12年)へと、日本と中国(中華民国)全面的な戦争状態に突入しました。
日本の中国侵略が、盧溝橋事件を経て自衛を口実に中国全土に拡大したです。
1938年(昭和13年)に4男の叔父24歳が、翌年に2男の伯父29歳が、続いて中国戦線で戦死しています。

墓石の文章では、国府村吏員だった叔父が、中国山西省霊石縣呉家山頭で、戦闘中迫撃砲が命中して戦死しています。
東京大学農学部付属教員養成所(3年制)で学び、農業学校教員だった伯父が、中国河北省易縣西方山地で、「匪賊」(中国兵)との激戦で戦死しています。
そのほか、5男が1941年(昭和16年)に、23歳で結核によって病死しています。叔父は旧制豊岡中学校を卒業後三菱造船所の設計課に勤務中、結核に罹患して伊佐屋に戻りました。
母の手厚い看護も及ばず、1941年(昭和16年)1月に死去、母も看病で結核に感染し、追うように同年11月に病死しています。
1つの家で2人が続いて戦死し、もう1人も厳しい造船所勤務で結核に罹って家に帰されるのはある意味職場における「戦死」のようなもので、さらに看病の母も結核で亡くなるという悲しい物語です。

3男である私の父は、商社勤務地である中国で招集されたものの、幸運にも生き残り伊佐屋に帰郷し後を継ぎました。
祖父は復員した父に、「しいらが帰ってきた」とつぶやいたそうです。「しいら」(粃米)で、未熟米のことを表します。また、「しいら」は、当時安くて美味しくない魚と言われていて、このことかも知れません。いずれもひどい言葉です。

次男は兵庫蚕糸学校(現八鹿高等学校)から東大農学部教員養成所、5男は旧制豊岡中学校に進みましたが、3男の父は高等小学校(今の中学校)を出て、知り合いの瀬戸市の陶器所や大阪の印刷所に丁稚奉公しています。本音ではないでしょうが、期待の子を次々と亡くし、戦争を生きのびてやっと復員してきた息子に対し、不器用な言い方で迎えた祖父の心は複雑なものだったのでしょう。

父は中国で綿花買い付けを行なっていた親戚に誘われて、大陸に渡り、済南・青島に勤務し、開封支店の責任者を務めて現地で召集されています。部隊勤務でも「支那語」が堪能だったので重宝されたそうです。

アジア太平洋戦争で、大空襲・沖縄戦・原爆と類を見ない戦禍は幾つもあるでしょう。
しかし昭和13年から16年にかけて家族4人を失うことになった伊佐屋の悲しい物語を知るにつけ、戦争への憎しみ、平和を求める心が強くなるのは当然です。


 

 

2024年2月 2日 (金)

伊佐屋物語 反戦平和編 Ⅰ

ブログの左端に「プロフィール」の項目があります。
文字どおりブログ作成者の自己紹介が書いてあります。私の場合は、加えて自分の平和への思いを書いています。

プロフィール
Photo_20240202084001

平和への思いが強いのは、大学入学が1966年(昭和41年)で、アメリカによるベトナム侵略・安保改定・沖縄返還・大学紛争など政治的エポックを通じて、社会を考えた団塊世代でした。

当時は60年に結ばれた日米安全保障条約(日米安保)の改定期でもあり、その上沖縄県はまだアメリカの占領下にありました。
戦後27年間日本国憲法が適用されず、立法・行政・司法といった施政権は米国が握っていたのです。現在も、全国の米軍専用施設の7割が、国土面積の0・6%しかない沖縄に集中するなど、復帰時の問題は残されたままです。
それどころか日本政府がアメリカの対中軍事政策の片棒を担ぐことで、有事の際の最前線基地の役割が大きくなっています。

仮想敵国(中国・北朝鮮・ロシア)をつくり、侵攻に対する「抑止力」がアメリカ軍であり、日本の軍事力強化である。という考えは危険です。
矛盾の語源である「矛と楯」、我々は昭和の歴史でそれを学んだはずです。
「軍事には軍事」、「力には力」で対抗するのではなく、憲法9条の精神を守り、平和を願う外交努力による道を求めます。

 

2024年1月 1日 (月)

2024 伊佐屋のお正月

2024年は昨年と同様に老夫婦2人で過ごすことになりました。
娘2に続き娘1の子が、高校3年生で受験を迎えることもあります。

伊佐屋正月のルーティンは、まず全員揃って神棚に向かってお参り、次に仏壇の仏様にお参りします。
ここで、一休みしてお屠蘇やお雑煮を頂きます。

神棚 & 仏壇
P1010031 P1010032
次に三木家のお墓にお参りします。最後に府市場区の氏神様の伊智神社にお参りして元旦のお祀り行事を終えます。
正月にお墓参り?と考えるのか、お墓にお花を供えているのは2割程度です。なによりも身近で大切なご先祖様がおわす地です。

伊佐屋家墓地 & 村社・伊智神社
P1010039 P1010041
本来なら、檀那寺の福成寺へのお参りがあるのですが、10km離れた出石町にあって元旦だけの受付なので後日に延ばします。
但馬の國一宮である出石神社には久しくお参りしたことはありません。
我が家の神様と仏様、府市場区の氏神様にお参りするのが伊佐屋スタイルです。



  

2023年3月 3日 (金)

伊佐屋のひな祭り

今日3月3日は桃の節句、雛(ひな)を飾ったり、お供えをして子の健やかな成長を祈ります。
当地では5月5日端午の節句と同じく一月遅れでお祝いしますが、都市部に住んでいる長女と次女からLINEでひな飾りの様子が届きました。

長女・孫3宅 & 次女・孫1宅
2286b53760894e40b2022387bb7aefe2  7649
どちらも、嫁さんの手作りちりめん細工のひな飾りで、10数年前の作品です。
都市部に住んでいる両家にはコンパクトで場所や時間が節約できて喜ばれます。
我が家は向かって右にお殿様を飾る京風です。

伊佐屋宅にある長女・次女のひな飾り
P4010311_20230303095001
こちらは1974年(昭和49年)に長女が生まれたとき、嫁さんの実家から送ってもらいました。
7段飾りの豪華版で、当時は3Kの公団住宅に飾ると1室を占拠しました。

但馬にUターン後は床の間を背にして、娘二人が嬉しそうに飾っていました。
規模や形は変わっても、孫のしあわせを願うジジババのプレゼントです。











  

 

2022年8月13日 (土)

2022 お盆と庭の草花

お盆になりました。歩いて7~8分の府市場共同墓地まで、家族揃ってお墓参りします。
亡き父は浴衣に着替え、手に数珠と線香を持ち、墓前で線香に火をつけて家族に配りました。

お墓から戻ると、仏間で父の先達で浄土真宗の「正信偈」を約30分間お勤めさせられました。
その間に母が、盆団子やご馳走を居間のテーブルに用意していました。
お腹が空いた子供たちにとって、ご馳走を尻目になんとも辛い「勤行」でした。
終わりの4行、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」が待ち遠しかったこと・・・・。

当代になって、短パンにTシャツ、スリッパ履きのラフな服装と、仏壇では「南無阿弥陀仏」の念仏だけで、「正信偈」は割愛させていただいています。

府市場区には村の中に100区画の共同墓地が集まっていて、お参り時刻となると里帰りの家族との挨拶も交わされます。
コロナ元年の静かなお盆」と違って、今年は里帰りが多く感じられます。かく言う我が家も、娘1の家族4人と15日には娘2がお参りに来てくれます。

お墓に近い花畑に夏の花が揃いました。

ヒオウギ & リアトリス
P7230003  P7210111

ヤナギハナガサ & ヒャクニチソウ
P8140006  P7210112

センニチコウ & キバナコスモス
P7210115  P8140004

オミナエシ & カワラナデシコ
P7210109 P7210123

ルドベキア
P7210120




   


 

  

2025年10月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

神鍋山野草を愛でる会

伊佐屋三木のblog1

  • 伊佐屋三木のblog1
    2007年4月から2015年5月まで8年間の記録です。 「サイト内検索」にキーワードを入れて検索すると過去記事が見られます。
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

道の駅かんなべ高原