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九条の会

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文化・歴史

2017年3月19日 (日)

東大寺 修二会 祈祷寶牘

P3190042_5 17日の土曜日東大寺二月堂から郵便が届きました。

開けてみると、修二会行法の無事満行の報告とお礼とのことで、「二月堂修二大法會御祈禱寶牘」のお札が入っていました。
「寶牘(ほうとく)」とはお札のことだそうです。
4日夜に内陣参拝をした折、若干の寄進したお礼でしょう。
 
修二会行法を満行すると今でも天皇にカビだらけのお餅とお札を皇居に持参し、報告するそうです。
「家内安全・身体健全」のご祈祷札は、仏壇でなく神棚に上げておきました。
東大寺手向山八幡宮を始め二月堂隣にも神社が共立しています。
明治期の廃仏毀釈(神仏分離)の荒波も勅願寺東大寺は別扱いとなったのでしょうか?
 
 

2017年3月12日 (日)

東大寺 修二会 内陣参拝編

塗塀の通路には結界が        次の出番を待つお松明
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闇に浮かぶ二月堂           登廊から二月堂
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内陣参拝証
P3040044 お松明に導かれて初夜上堂が行われ、事前に頂いた許可書を提出し入堂が許されます。
 
行をおこなうのは練行衆と呼ばれる11人の僧侶です。
あくまでも法会なので女性が入れるのは外側の「局(つぼね)」まで、格子越しに行を拝見することになります。
一方男性は外陣まで進むことができ、白麻の扉帳越しに内陣で行われている行を拝見します。
ほとんど照明がなく、何本かの灯明が暗闇を照らしてくれます。
菜種油が燃える時に出るススが周りに広がり、少し息苦しく付けたマスクが黒ずんできます。
2時間も居れば髪の毛も鼻の穴も黒くなります。
 
21時半ごろから大導師作法で神名帳、過去帳が読み上げられ、続いて声明が始まると、幕越しに映る影とともに想像力の世界が始まります。
声明を唱えながら内陣を木沓で駆け巡る足音や錫杖の鈴の音や板に膝を打ち付ける「五体投地」など、極めて動的な行が続きます。
  、
0時過ぎに休憩?が入り、廊下伝いに一度出てだけで外陣と正面の局で約4時間、行が終わって下堂となったのが1時過ぎでした。
大陸から仏教が伝えられて200年の奈良時代、松明のほかこの日は無かった「達陀(だったん)」の行などゾロアスター教(拝火教)要素も混じります。
火と水の融合を感じる修二会です。
 
12日(13日2時頃)のお水取りを終えて修二会は14日まで続き、関西では「お水取りが終わると春が来る」といいます。
兵庫県南部ではイカナゴを「春告げ魚」と呼びます。
雪国但馬は少し遅れて「初午大祭」が終わると春が来るのです。
 
 
 

2017年3月10日 (金)

東大寺 修二会 お松明編

記事が遅くなりましたが、修二会の見学報告です。

但馬出発が13時半、東大寺着が17時ごろ、19時のお松明見学、21時から二月堂内でおこなわれる練行衆の行法を見学します。
行が終わるのが夜中の1時頃という長丁場です。
 
東大寺南大門                   二月堂
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懸けづくりの舞台                 二月堂正面
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土曜日とあってお5時頃から松明目当の参詣客(見物客)が二月堂下の芝生に陣取り始めました。
予想では2万人程度が集まるとのこと。
 
大松明見学のベストポジションに待機する参詣客(舞台から撮影)
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                   若狭井(お水取りの場所)            
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増える一方の参詣客             二月堂からの夕日(中央・大仏殿、奧・生駒山)
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752年から1266回を数える伝統行事ですが、舞台で火のついた松明を振り回すのが修二会のシンボルとなっています。
入堂する足明かりとしてお松明が燃やされ、練行衆が二月堂の登り廊下を次々登って行きます。
松明は1人に1本ずつ焚かれ、この日は10本で12日のお水取りには11本となるそうです。
待機中に修二会の行法の内容や由来などの説明が日・英・中の3カ国語でありました。
 
回廊から上る大松明と舞台上の大松明   南西角の大松明
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お松明から燃え落ちた杉葉
P3050002 バスを連ね大松明目当ての観光客が目につきますが、毎年のように参詣し、ご利益がある火の粉を浴びるとのと、松明から燃え落ちた杉葉を持ち帰って家に祀る人があります。
約20分のお松明が終わると、一気に人が帰り始めます。
我々は付近で腹ごしらえし、21時から夜中まで続く行法に参加します。
 
 
 

2017年3月 2日 (木)

若狭神宮寺 お水送り

お水取り行事は春を告げる行事として特に有名です。

一方3月2日に若狭の国、小浜の神宮寺の「お水送り」は案外知られていません。
東大寺の「お水取り」に先がけて、神宮寺と遠敷川・鵜の瀬(うのせ)でおごそかに繰り広げられる伝統的神事で、遠敷川に注がれた「お香水」が10日かかって東大寺二月堂の「若狭井」に届くとされています。
 
奈良と若狭の深い関係にあったことを物語る歴史的な行事ですが、もとは神様のうっかりミスから始まったようです。
 
 東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正は、若狭小浜の下根来(しもねごり)(白石)出身とされ、大仏建立には当時若狭にて修行中のインドの渡来僧・実忠(じっちゅう)が招かれています。 天平勝宝 4(752)年、この実忠が東大寺二月堂を建立し、修二会(しゅじえ)を開いて全国の神々を招きました。ところが、遠敷明神が漁に夢中で時を忘れて遅刻(ちこく)しました。そのおわびに本尊(ほんぞん)に供えるお香水を若狭から送ると約束し、二月堂の下の岩をたたくときれいな水が湧(わ)き出したと伝えられます。そこでこの湧水(ゆうすい)に命名されたのが「若狭井」です。森林の水PR館より)
 
3月2日、神宮寺で汲まれた「お香水」は、各種神事や行を経て松明行列とともにの「鵜の瀬」まで運ばれ、住職が送水文を読み上げ、「お香水」は筒から遠敷川に注ぎ込まれます。
 
太古から続く奈良と小浜(オバマ)の絆 「お水送り」 ↓ をご覧ください 観光連盟福井県
   
今回は4日(土)から奈良「お水取り」を見学に行きます。
但馬から小浜神宮寺まで車で2時間半、来年はこの「お水送り」を見学するつもりです。
 
 

2017年3月 1日 (水)

東大寺二月堂 修二会の始まり

1日から東大寺の修二会の本行が始まりました。

通称お水取りといわれ14日まで毎日行われます。
二月堂の懸けづくりの舞台をお松明が火の粉を散らし、それを身に浴びて功徳をえようとする信者や観光客の姿で有名です。
クライマックスの若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式は12日におこなわれます。
 
東大寺ホームページ「修二会について」をご覧ください。
 
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大仏開眼の752年から始まり、1,266回を数えるといいます。
 
以前から興味があった修二会の行事見学のお誘いがありました。
古建築を研究するグループの企画で、過去に愛媛の銅山遺跡や大三島神社、姫路市の寺社、石清水八幡宮、三朝の三徳山投入堂などいろいろ連れていっていただきました。
この見学会は必ず資料と説明の方を手配していただけることと、今回は24日の「事前学習会」でDVDを見ながら特別に撮影された練行衆の行法を学びました。
 
4日(土)マイクロバスにて出発、夕方に現地到着し二月堂の建築を学び、19時からお松明を見学後、21時から夜中まで練行衆によっておこなわれる堂内での行法に参加します。
注意事項は堂内の外陣や局で行法を見学するので邪魔にならぬよう配慮することと、ともかく寒いので防寒対策と、堂内の灯明でススが付いたり、お松明の火の粉が飛ぶので上等な服は着ていかないことの3点でした。
 
 

2016年9月18日 (日)

国史跡 有子山城跡 清掃作業

但馬の城で国史跡は、此隅山城、有子山城、竹田城、八木城の4城跡です。

中でも有子山城跡は戦国大名山名氏の城として山頂に築かれた大規模な山城です。
 
有子山城跡                    縄張り図(整備作業用)
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18日(日)山名氏城跡保存会の清掃作業に参加してきました。
普段から歴史講演会や城跡探訪でお世話になりながら、城跡清掃に参加できずに心苦しく思っていました。
今にも降りそうな不安定なお天気にもかかわらず、阪神や播州からの参加も含めて約30名が、草刈り機・鎌・鉈・剪定ハサミ持参で集まりました。
清掃は本丸や尾根伝いに続く郭や石垣・通路などの草木の除去を中心に行いました。
 
主郭から北方向の眺め             「戦闘(清掃)開始」の雄叫び
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                主郭の石垣周りを念入りに清掃
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郭や通路の草刈り                小さな歴史家が登城
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                      作業終了 
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作業後、主郭の隣にある「千畳敷」と呼ばれる櫓や居館あとなど135m×50mの壮大な遺構を見学しました。
 
                       千畳敷
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有子山主郭まで、出石城の最上部の稲荷郭から約40分、急登箇所もあります。
戦国期や織豊期の壮大な遺構が見られるのと出石城下から豊岡盆地に広がる眺めはすばらしく、登りの苦労を忘れさせてくれます。
 
最近有子山を見上げると、肌色がかった石垣がよく見えるのに気がつきます。
山名氏城跡保存会による定期的な手入れによるものです。
僅かな時間でしたがその一端が担えて気分よく帰路につきました。
 
今朝の朝日新聞但馬版に清掃作業が載っています。
 

2016年9月10日 (土)

歴史文化遺産講演会 豊岡の二大城

2013年から「ふるさと豊岡再発見の旅 城郭コース」を受講して、4年目の今年も申込みました。
20160910_134232 第1回は「講演会 豊岡の二大城」、講師は但馬城郭研究の第一人者 西尾孝昌氏(山名氏城跡保存会会長)です。
 
豊岡市立歴史博物館では、企画展「知られざる!豊岡の二大城」が開催されています。
あまり聞き慣れない言葉でしたが、豊岡二大城とは出石城と豊岡城を指し、城郭は明治期に壊されていますが、城跡や城下町が残っています。
山上にある山名氏の有子山城と江戸期に整備された山の下の出石城は有名で、何度か勉強したことがありますが、一時間半の講演で印象的だったのは豊岡城と城下町した。
 
1615年の「一国一城令」によって、但馬の城は出石城と決められ、豊岡城は豊岡陣屋とされましたが、室町期の木崎城、織豊期の豊岡城の遺構や城下町が残っています。
城山となる「神武山」には城と館が建てられ、五角形の天守台まで築かれていました。
天守台は昭和中期に豊岡市の貯水タンクが建設され本丸の一部とともに壊されました。
西尾先生による縄張り図や残されている絵図の比較から、小規模ながらも京極家の入部以来、陣屋居館・内郭・外郭や城下町の整備がなされています。
 
また豊岡高校(旧制豊岡中学)がその後、明治初期に遙拝所が置かれ神武山と呼ばれた城山の南に位置していて、江戸期の武家屋敷をこわし内堀を埋めて建てられているいるのがわかります。

  旧制豊岡中学校校舎と神武山(昭和12年、進叔父の卒業アルバム)
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学んでいた頃は気がつかなかったことですが、校舎を東西に走っている道が屋敷と内堀との境界だったのでしょう。
そういえば、グラウンドやテニスコート・プールも和魂ホールもこの道を隔てて一段下がったところにあります。
これらは内堀外の田んぼを埋め立てられたようです。
在学時もグラウンドから南は、現在家が立ち並ぶ桜町や昭和町などはなく、田んぼが広がっていましたね。
 
     昭和40年頃の豊岡高校全景 (小山譲 画)
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豊岡城については、豊岡藩といっても石高一万石から1万五千石、陣屋とされたこともあってさほど注目されることもなく、二大城といわれてもピンと来ませんでした。
この講演を通じて高校時代に弁当を食べたり、遊んだりして慣れ親しんだ神武山が、一層身近に感じられました。
詳しいことは豊岡市立歴史博物館、企画展「知られざる!豊岡の二大城 」と2012年に発行された小冊子「ぶらり豊岡の城下町」をご覧ください。
 
 

2016年8月18日 (木)

旧高橋村 開拓団集団自決

豊岡市立日本モンゴル民族博物館で企画展『満州「大兵庫開拓団と高橋村』が開催されています。
敗戦直後の昭和20年8月17日、現地のホラン川に飛び込むなどして298人が犠牲となりました。

日本モンゴル民族博物館                企画展パンフ
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一宮神社の「殉難者之碑」
Img_20160819_0002_4 豊岡市但東町旧高橋村の開拓団103世帯、479人が大陸に渡り、ソ連軍侵攻や現地人の 襲撃に遭い、敗戦直後の8月17日、現地のホラン川に集団入水しました。
大人子供を合わせ298人が犠牲となり、病死なども含め345人が大陸で命を落としました。
 
当時の資料や関係者の証言、現地の写真などが展示されていて、開拓団が大陸に送られた時代背景や高橋村が開拓団に選ばれた理由、開拓の様子や集団自決の状況、引き揚げ後の村民の生活が展示されています。
 
関係者の証言で、集落毎に戸数を割り当てられ否応なしに移住が決められた様子がわかります。
国策によって強制された開拓団の悲惨な状況が伝わってきて、あらためて計画の無謀さと冷酷さを感じます。
 
①戦争遂行のため食糧増産を満州の地に求め、主要食料を十分生産できる「適正農家」とそうでない「過小農家」に分け、「過小農家」に満州への分村を求めています。
 
②年表を見ると高橋村が対象として指定されたのが昭和18年秋で約400戸が満州に渡ったのが昭和19年春でした。
その頃イタリアは降伏し、南方での敗北が続き敗戦が色濃くなっています。
さらに、補充団員25名が送られたのが昭和20年4月でドイツが降伏する直前です。
 
③開拓団に避難命令が下った8月13日から過酷な逃避行が始まり、敗戦を知り暴徒の襲撃に遭うなどして苦難の上、4日後には呼蘭河で集団自決を決行しています。
 
④生存者にも厳しい拘留生活と、帰国した119人にも生活の苦労が待っていました。
 
満蒙開拓団の悲劇は残留孤児問題も関連してある程度知っていましたが、かくまでとはとあらためて不明を恥じました。
71年経って体験者が少なくなり風化しつつある今こそ、戦争の悲惨さ・残酷さ伝えることの大切さを痛感しました。
                               
企画展『満州「大兵庫開拓団と高橋村は9月20日まです。
兵士としてではなく、開拓民として村単位で蒙った戦争被害の実態を是非知って欲しいものです。
 
 

2015年11月30日 (月)

とよおかの城郭コース 轟城

2013年から「ふるさと豊岡再発見の旅 城郭コース」を受講しています。
一年目は有子山城、三開山城、豊岡城、亀ヶ城。
昨年は此隅山城、東河内城(中止)、金蔵寺城(延期)、轟城(延期・中止)が予定されたものの、悪天候で轟城は二度にわたって中止となり今度が三度目の企画です。
轟城は山名氏重臣の垣屋一族の垣屋駿河守豊続が城主としてしられ、日高町にある本家垣屋の楽々前(ささのくま)城は今年、宵田城は以前見学しました。
豊続は毛利方として但馬で最後まで豊臣と戦った武将ですが、後に秀吉軍に与し因幡攻めに貢献したことで許されて領地を与えられています。
轟(青葉)城は標高147mに主郭があり、火伏せの神で知られる秋葉神社が鎮座しています。
室町期に築城された山城が戦国期、天正期に改修され、大規模な郭、堀切、竪堀・畝状竪堀が見られます。
城山                     参加者証
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奧に畝状竪堀               帯郭
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土塁跡                   主郭、秋葉神社
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白狐に乗る秋葉三尺坊大権現       ロープをくだって堀切・竪堀見学
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主郭跡では講師の西尾先生から、城郭の説明とともに野田合戦、水生古城の戦い、宵田表の合戦など戦国時代の但馬を巡る毛利対織田豊臣の攻防の説明を受けました。
天正期に信長の命を受け毛利討伐を狙い播磨侵攻と同時に但馬平定を狙う秀吉と、ここを失えば因幡・伯耆・出雲・石見へと軍を進められるのを恐れる毛利方吉川など政治的に駆け引きを重ね、有力国人を奪い合います。
もともと毛利の影響が強い但馬において、どちらに与するか国人・地侍は大いに悩んだものでしょう。
天正8年の秀吉・秀長軍による第二次但馬侵攻でさすがの垣屋豊続も軍門に下り翌年の小代一揆鎮圧で但馬が平定され、鳥取城落城で因幡も秀吉に降りました。
 
但馬の山城は約350、豊岡市には156ヶ所といわれまだまだネタは尽きません。
今年3年目を迎える城郭探訪も来年も継続して頂けるようなお話しでした。
 


      

2015年11月23日 (月)

2015 社寺探訪 三徳山三佛寺

八鹿公民館の社寺建築講座を受講してから神社仏閣を歴史だけでなく建築上の観点から勉強する気になりました。

ひょんなことから兵庫県夢テーブル神社仏閣グループに加わり、但馬の寺社を巡っています。
今回は足を伸ばして断崖絶壁に建てられた国宝投入堂で名高い鳥取県三朝町「三徳山三佛寺」をグループで訪れました。

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麓の遙拝所から投入堂       投入堂由緒
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三佛寺本堂
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服装と履き物のチェックを受け入山届けを提出、六根清浄と書いた襷をつけて参拝開始です。
参拝といっても岩場や木の根などが露出する急坂が多く、礼拝登山=修行という言い方が正解でしょう。
事故もたびたび起こっていて、用心のため一人では入山が許可されないので、どこかのペアかグループにお願いして入れてもらうことになります。
また靴のチェックではねられた方には、わらじの貸し出しがあります。
素足が露出したわらじは頼りなさそうに見えますが、聞けば足にぴったりして滑りにくくて好評のようです。
入下山受付所                    役小角(役行者)像
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木の根の階段           急坂の連続
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厳しい登りの先に文殊堂、地蔵堂、鐘楼を経て馬の背・牛の背と呼ばれる岩場を渡り、納経堂、観音堂、不動堂と続きます。
文殊堂横のクサリ坂        スリル満点、文殊堂からの景色
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地蔵堂                       馬ノ背
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牛の背                 観音堂
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堂塔の最上部が絶壁に建てられた国宝投入堂で、ここにお参りするためにこの寺を訪れるようなものです。
           国宝投入堂(なげいれどう)            
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テレビクルーも取材
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建てられたのは平安後期藤原時代、寄り添うように建っている愛染堂とともに、懸造りの建築です。
断崖絶壁に建つ不思議さに、飛鳥時代に修験道を開いた役小角(えんのおづぬ)が法力をもって岩窟に投げ入れたというのが名の由来です。

下りは滑ったり足をくじいたりしやすいので、登り以上に注意が必要です。
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Img_3749_2三徳山は修行の場で、木の根や岩場、クサリをよじ登る険しいところもあり、登り下りに約2時間かかります。
日本では昔から山には神々が宿ると信じ、山を恐れ山を敬 ってきました。
山で厳しい修行を行うことで悟りを得るという修験道がおこなわれ、総本山吉野金峰山寺が有名で、神と仏が一体となったご本尊の「蔵王権現立像」は怒りの形相で見るからに恐ろしそうなお姿です。
三佛寺に奉納されている蔵王権現立像は歴史的にも非常に古く、蔵王権現の彫像として最古に位置づけられるそうです。
テレビ朝日のクルーが投入堂前で登拝者に「ここまで上がられてきた感想はどうでしたか?」と聞いていましたが、「厳しい山行のほんの一端を垣間見ることができました」とでもしておきましょう。


 

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