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九条の会

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文化・歴史

2017年9月16日 (土)

講演 アメノヒボコの考古学

豊岡市立博物館では第41回企画展、「但馬一宮 出石神社の名宝」が開催されていて、同市学芸員仲田氏の講演「アメノヒボコの考古学」が開催されました。

通常の歴史学に較べて考古学は古墳・遺跡・土器などわずかに残されている断片などから当時の文化・生活など推測する難しい学問のようです。
『古事記』『日本書紀』に登場するアメノヒボコは新羅の王子で、太古に日本に渡来してきて、但馬や畿内に大きな影響を与えたとされています。
 
古墳時代の朝鮮半島情勢
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講演は古墳時代7世紀までの朝鮮半島情勢から始まりました。
それを踏まえて、朝鮮半島との交流・渡来人の関わりについて但馬出土の渡来系遺物である「鉄」、「土器」、「古墳」の写真資料をもとに話されました。
 
大陸から海続きの日本海側、但馬との交流は計り知れないものがあったと思われます。
渡来系の氏族である秦氏、出石町袴狭遺跡の遺物500点から人名と思われる90点のうち、69点が「秦氏」が記されているのも驚きです。
 
まとめとして、渡来人一世の痕跡は少なく、倭人化した二世以降の存在がうかがえるとのことでした。
アメノヒボコは「個人」なのかはたまた「集団」なのか、資料も少なく神話と遺構・遺物から推察するしかないようです。
 
いずれにしても朝鮮半島は大陸文化との交流窓口で、政治的・軍事的にも倭国に大きな影響を与えてきました。
 
<ユネスコ憲章>
 
「相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。・・・・・・」
 
日本と朝鮮半島、中国大陸の交流の歴史を考えると、現状は嘆かわしいものです。
この教訓を生かさないといけませんね。
 
 

2017年8月15日 (火)

戦後72年 敗戦の日

昨年の記事「戦後71年 敗戦の日」を再録します。

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8月15日はアジア・太平洋戦争の終戦記念日とされ、戦没者追悼行事が行われます。

ところが15日は天皇が日本国民に向けてラジオ放送された日でしかなく、日本政府がポツダム宣言受諾を英米に回答したのは8月14日とされます。
無条件降伏を受け入れた大日本帝国の敗北は、絶対主義天皇制と日本軍国主義の敗北で、単なる「終戦」ではなく正確に「敗戦」と呼ばれるのが筋だと思います。
国際的には降伏文書が調印された9月2日が連合国の「戦勝記念日」と設定されています。
 
それはともかくこの戦争でアジア・太平洋地域で2,000万人以上、日本国民も310万人の死者がでています。
 
伯父と叔父の墓碑
P8120140_2 私の家でも、日中戦争の最中13年と14年に、伯父と叔父の二人を中国大陸で失いました。
戦死も初期だったことで、地区を挙げての慰霊を受け、妻は「靖国の妻」、祖父母は2人の息子をお国に捧げた「靖国の父と母」として、靖国神社臨時大祭に招かれています。
府市場区墓地の中でひときわ立派な墓碑が並び立っていて、子供の頃は誇らしくもありました。
 
一軒の家に2人、13年と14年に連続しているのはまれで、残された妻と幼な子、父母の秀蔵・民恵の悲しみは想像を絶するものでしょう。
授与された勲章や靖国の英霊としての扱いも、戦死の悲哀が誉れに替わるはずはありません。
 
敗戦から71年、アジア諸国への「植民地支配と侵略」の歴史から学ぼうとせず、再び「富国強兵」の道を歩もうとする安倍政治に強い危惧を抱きます。
また最近の若者の認識にも中国や朝鮮などに対する「嫌・反・憎」の気運が目立つようになりました。
中学・高校の歴史の授業は明治で時間切れ、口では反省を唱えながら昭和の歴史をほとんど教えてこなかった責任も重大です。
 
排外・愛国を強調し強い国を目指すトランプはアメリカだけに居るのではなく、日本にもいま育ちつつあることに不安を覚えるのは私だけではないでしょう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
北朝鮮とアメリカの恫喝合戦が続いています。
現体制の継続を保証させたい金正恩が、国連安保理の決議を無視して、核やミサイルの開発を進めています。
アメリカのイラク侵攻→フセイン政権の崩壊から学んだのです。
 
日米韓を敵視する金正恩ですが、安倍政権の最大の応援者でもあります。
安倍内閣が富国強兵・憲法改正・国政私物化などで批判を浴び、支持率が落ちそうになると決まって、核実験・ミサイル発射で「将軍さま」が助け船を出します。
そのたびに安倍内閣が軍事脅威を強調し、「防衛体制」の必要性を楯に求心力を取り戻しているのがよくわかります。
 
過去の戦争いや歴史において、他国からの脅威を理由に有事体制を強め、衝突へと突き進んできました。
米朝両国に自制を求めると同時に、前提条件を廃し、直接対話するのが緊張緩和の第一歩です。
疑心暗鬼に駆られる際限ない戦争準備に較べてこれほど崇高な政治行為はありません。
 
大学の先輩で石見銀山ガイドの会会長のAさんがよく引用するユネスコ憲章前文の冒頭。
 
戦争は人の心の中で生まれものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
さらに、ここがポイントだと続けて・・・・・
 
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。・・・・・・
対話を重ねる中でお互いを知り、理解することから始まります。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といいます。
 
 

2017年3月19日 (日)

東大寺 修二会 祈祷寶牘

P3190042_5 17日の土曜日東大寺二月堂から郵便が届きました。

開けてみると、修二会行法の無事満行の報告とお礼とのことで、「二月堂修二大法會御祈禱寶牘」のお札が入っていました。
「寶牘(ほうとく)」とはお札のことだそうです。
4日夜に内陣参拝をした折、若干の寄進したお礼でしょう。
 
修二会行法を満行すると今でも天皇にカビだらけのお餅とお札を皇居に持参し、報告するそうです。
「家内安全・身体健全」のご祈祷札は、仏壇でなく神棚に上げておきました。
東大寺手向山八幡宮を始め二月堂隣にも神社が共立しています。
明治期の廃仏毀釈(神仏分離)の荒波も勅願寺東大寺は別扱いとなったのでしょうか?
 
 

2017年3月12日 (日)

東大寺 修二会 内陣参拝編

塗塀の通路には結界が        次の出番を待つお松明
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闇に浮かぶ二月堂           登廊から二月堂
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内陣参拝証
P3040044 お松明に導かれて初夜上堂が行われ、事前に頂いた許可書を提出し入堂が許されます。
 
行をおこなうのは練行衆と呼ばれる11人の僧侶です。
あくまでも法会なので女性が入れるのは外側の「局(つぼね)」まで、格子越しに行を拝見することになります。
一方男性は外陣まで進むことができ、白麻の扉帳越しに内陣で行われている行を拝見します。
ほとんど照明がなく、何本かの灯明が暗闇を照らしてくれます。
菜種油が燃える時に出るススが周りに広がり、少し息苦しく付けたマスクが黒ずんできます。
2時間も居れば髪の毛も鼻の穴も黒くなります。
 
21時半ごろから大導師作法で神名帳、過去帳が読み上げられ、続いて声明が始まると、幕越しに映る影とともに想像力の世界が始まります。
声明を唱えながら内陣を木沓で駆け巡る足音や錫杖の鈴の音や板に膝を打ち付ける「五体投地」など、極めて動的な行が続きます。
  、
0時過ぎに休憩?が入り、廊下伝いに一度出てだけで外陣と正面の局で約4時間、行が終わって下堂となったのが1時過ぎでした。
大陸から仏教が伝えられて200年の奈良時代、松明のほかこの日は無かった「達陀(だったん)」の行などゾロアスター教(拝火教)要素も混じります。
火と水の融合を感じる修二会です。
 
12日(13日2時頃)のお水取りを終えて修二会は14日まで続き、関西では「お水取りが終わると春が来る」といいます。
兵庫県南部ではイカナゴを「春告げ魚」と呼びます。
雪国但馬は少し遅れて「初午大祭」が終わると春が来るのです。
 
 
 

2017年3月10日 (金)

東大寺 修二会 お松明編

記事が遅くなりましたが、修二会の見学報告です。

但馬出発が13時半、東大寺着が17時ごろ、19時のお松明見学、21時から二月堂内でおこなわれる練行衆の行法を見学します。
行が終わるのが夜中の1時頃という長丁場です。
 
東大寺南大門                   二月堂
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懸けづくりの舞台                 二月堂正面
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土曜日とあってお5時頃から松明目当の参詣客(見物客)が二月堂下の芝生に陣取り始めました。
予想では2万人程度が集まるとのこと。
 
大松明見学のベストポジションに待機する参詣客(舞台から撮影)
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                   若狭井(お水取りの場所)            
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増える一方の参詣客             二月堂からの夕日(中央・大仏殿、奧・生駒山)
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752年から1266回を数える伝統行事ですが、舞台で火のついた松明を振り回すのが修二会のシンボルとなっています。
入堂する足明かりとしてお松明が燃やされ、練行衆が二月堂の登り廊下を次々登って行きます。
松明は1人に1本ずつ焚かれ、この日は10本で12日のお水取りには11本となるそうです。
待機中に修二会の行法の内容や由来などの説明が日・英・中の3カ国語でありました。
 
回廊から上る大松明と舞台上の大松明   南西角の大松明
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お松明から燃え落ちた杉葉
P3050002 バスを連ね大松明目当ての観光客が目につきますが、毎年のように参詣し、ご利益がある火の粉を浴びるとのと、松明から燃え落ちた杉葉を持ち帰って家に祀る人があります。
約20分のお松明が終わると、一気に人が帰り始めます。
我々は付近で腹ごしらえし、21時から夜中まで続く行法に参加します。
 
 
 

2017年3月 2日 (木)

若狭神宮寺 お水送り

お水取り行事は春を告げる行事として特に有名です。

一方3月2日に若狭の国、小浜の神宮寺の「お水送り」は案外知られていません。
東大寺の「お水取り」に先がけて、神宮寺と遠敷川・鵜の瀬(うのせ)でおごそかに繰り広げられる伝統的神事で、遠敷川に注がれた「お香水」が10日かかって東大寺二月堂の「若狭井」に届くとされています。
 
奈良と若狭の深い関係にあったことを物語る歴史的な行事ですが、もとは神様のうっかりミスから始まったようです。
 
 東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正は、若狭小浜の下根来(しもねごり)(白石)出身とされ、大仏建立には当時若狭にて修行中のインドの渡来僧・実忠(じっちゅう)が招かれています。 天平勝宝 4(752)年、この実忠が東大寺二月堂を建立し、修二会(しゅじえ)を開いて全国の神々を招きました。ところが、遠敷明神が漁に夢中で時を忘れて遅刻(ちこく)しました。そのおわびに本尊(ほんぞん)に供えるお香水を若狭から送ると約束し、二月堂の下の岩をたたくときれいな水が湧(わ)き出したと伝えられます。そこでこの湧水(ゆうすい)に命名されたのが「若狭井」です。森林の水PR館より)
 
3月2日、神宮寺で汲まれた「お香水」は、各種神事や行を経て松明行列とともにの「鵜の瀬」まで運ばれ、住職が送水文を読み上げ、「お香水」は筒から遠敷川に注ぎ込まれます。
 
太古から続く奈良と小浜(オバマ)の絆 「お水送り」 ↓ をご覧ください 観光連盟福井県
   
今回は4日(土)から奈良「お水取り」を見学に行きます。
但馬から小浜神宮寺まで車で2時間半、来年はこの「お水送り」を見学するつもりです。
 
 

2017年3月 1日 (水)

東大寺二月堂 修二会の始まり

1日から東大寺の修二会の本行が始まりました。

通称お水取りといわれ14日まで毎日行われます。
二月堂の懸けづくりの舞台をお松明が火の粉を散らし、それを身に浴びて功徳をえようとする信者や観光客の姿で有名です。
クライマックスの若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式は12日におこなわれます。
 
東大寺ホームページ「修二会について」をご覧ください。
 
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大仏開眼の752年から始まり、1,266回を数えるといいます。
 
以前から興味があった修二会の行事見学のお誘いがありました。
古建築を研究するグループの企画で、過去に愛媛の銅山遺跡や大三島神社、姫路市の寺社、石清水八幡宮、三朝の三徳山投入堂などいろいろ連れていっていただきました。
この見学会は必ず資料と説明の方を手配していただけることと、今回は24日の「事前学習会」でDVDを見ながら特別に撮影された練行衆の行法を学びました。
 
4日(土)マイクロバスにて出発、夕方に現地到着し二月堂の建築を学び、19時からお松明を見学後、21時から夜中まで練行衆によっておこなわれる堂内での行法に参加します。
注意事項は堂内の外陣や局で行法を見学するので邪魔にならぬよう配慮することと、ともかく寒いので防寒対策と、堂内の灯明でススが付いたり、お松明の火の粉が飛ぶので上等な服は着ていかないことの3点でした。
 
 

2016年9月18日 (日)

国史跡 有子山城跡 清掃作業

但馬の城で国史跡は、此隅山城、有子山城、竹田城、八木城の4城跡です。

中でも有子山城跡は戦国大名山名氏の城として山頂に築かれた大規模な山城です。
 
有子山城跡                    縄張り図(整備作業用)
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18日(日)山名氏城跡保存会の清掃作業に参加してきました。
普段から歴史講演会や城跡探訪でお世話になりながら、城跡清掃に参加できずに心苦しく思っていました。
今にも降りそうな不安定なお天気にもかかわらず、阪神や播州からの参加も含めて約30名が、草刈り機・鎌・鉈・剪定ハサミ持参で集まりました。
清掃は本丸や尾根伝いに続く郭や石垣・通路などの草木の除去を中心に行いました。
 
主郭から北方向の眺め             「戦闘(清掃)開始」の雄叫び
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                主郭の石垣周りを念入りに清掃
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郭や通路の草刈り                小さな歴史家が登城
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                      作業終了 
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作業後、主郭の隣にある「千畳敷」と呼ばれる櫓や居館あとなど135m×50mの壮大な遺構を見学しました。
 
                       千畳敷
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有子山主郭まで、出石城の最上部の稲荷郭から約40分、急登箇所もあります。
戦国期や織豊期の壮大な遺構が見られるのと出石城下から豊岡盆地に広がる眺めはすばらしく、登りの苦労を忘れさせてくれます。
 
最近有子山を見上げると、肌色がかった石垣がよく見えるのに気がつきます。
山名氏城跡保存会による定期的な手入れによるものです。
僅かな時間でしたがその一端が担えて気分よく帰路につきました。
 
今朝の朝日新聞但馬版に清掃作業が載っています。
 

2016年9月10日 (土)

歴史文化遺産講演会 豊岡の二大城

2013年から「ふるさと豊岡再発見の旅 城郭コース」を受講して、4年目の今年も申込みました。
20160910_134232 第1回は「講演会 豊岡の二大城」、講師は但馬城郭研究の第一人者 西尾孝昌氏(山名氏城跡保存会会長)です。
 
豊岡市立歴史博物館では、企画展「知られざる!豊岡の二大城」が開催されています。
あまり聞き慣れない言葉でしたが、豊岡二大城とは出石城と豊岡城を指し、城郭は明治期に壊されていますが、城跡や城下町が残っています。
山上にある山名氏の有子山城と江戸期に整備された山の下の出石城は有名で、何度か勉強したことがありますが、一時間半の講演で印象的だったのは豊岡城と城下町した。
 
1615年の「一国一城令」によって、但馬の城は出石城と決められ、豊岡城は豊岡陣屋とされましたが、室町期の木崎城、織豊期の豊岡城の遺構や城下町が残っています。
城山となる「神武山」には城と館が建てられ、五角形の天守台まで築かれていました。
天守台は昭和中期に豊岡市の貯水タンクが建設され本丸の一部とともに壊されました。
西尾先生による縄張り図や残されている絵図の比較から、小規模ながらも京極家の入部以来、陣屋居館・内郭・外郭や城下町の整備がなされています。
 
また豊岡高校(旧制豊岡中学)がその後、明治初期に遙拝所が置かれ神武山と呼ばれた城山の南に位置していて、江戸期の武家屋敷をこわし内堀を埋めて建てられているいるのがわかります。

  旧制豊岡中学校校舎と神武山(昭和12年、進叔父の卒業アルバム)
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学んでいた頃は気がつかなかったことですが、校舎を東西に走っている道が屋敷と内堀との境界だったのでしょう。
そういえば、グラウンドやテニスコート・プールも和魂ホールもこの道を隔てて一段下がったところにあります。
これらは内堀外の田んぼを埋め立てられたようです。
在学時もグラウンドから南は、現在家が立ち並ぶ桜町や昭和町などはなく、田んぼが広がっていましたね。
 
     昭和40年頃の豊岡高校全景 (小山譲 画)
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豊岡城については、豊岡藩といっても石高一万石から1万五千石、陣屋とされたこともあってさほど注目されることもなく、二大城といわれてもピンと来ませんでした。
この講演を通じて高校時代に弁当を食べたり、遊んだりして慣れ親しんだ神武山が、一層身近に感じられました。
詳しいことは豊岡市立歴史博物館、企画展「知られざる!豊岡の二大城 」と2012年に発行された小冊子「ぶらり豊岡の城下町」をご覧ください。
 
 

2016年8月18日 (木)

旧高橋村 開拓団集団自決

豊岡市立日本モンゴル民族博物館で企画展『満州「大兵庫開拓団と高橋村』が開催されています。
敗戦直後の昭和20年8月17日、現地のホラン川に飛び込むなどして298人が犠牲となりました。

日本モンゴル民族博物館                企画展パンフ
P8180032 Img_20160819_0_2
 
一宮神社の「殉難者之碑」
Img_20160819_0002_4 豊岡市但東町旧高橋村の開拓団103世帯、479人が大陸に渡り、ソ連軍侵攻や現地人の 襲撃に遭い、敗戦直後の8月17日、現地のホラン川に集団入水しました。
大人子供を合わせ298人が犠牲となり、病死なども含め345人が大陸で命を落としました。
 
当時の資料や関係者の証言、現地の写真などが展示されていて、開拓団が大陸に送られた時代背景や高橋村が開拓団に選ばれた理由、開拓の様子や集団自決の状況、引き揚げ後の村民の生活が展示されています。
 
関係者の証言で、集落毎に戸数を割り当てられ否応なしに移住が決められた様子がわかります。
国策によって強制された開拓団の悲惨な状況が伝わってきて、あらためて計画の無謀さと冷酷さを感じます。
 
①戦争遂行のため食糧増産を満州の地に求め、主要食料を十分生産できる「適正農家」とそうでない「過小農家」に分け、「過小農家」に満州への分村を求めています。
 
②年表を見ると高橋村が対象として指定されたのが昭和18年秋で約400戸が満州に渡ったのが昭和19年春でした。
その頃イタリアは降伏し、南方での敗北が続き敗戦が色濃くなっています。
さらに、補充団員25名が送られたのが昭和20年4月でドイツが降伏する直前です。
 
③開拓団に避難命令が下った8月13日から過酷な逃避行が始まり、敗戦を知り暴徒の襲撃に遭うなどして苦難の上、4日後には呼蘭河で集団自決を決行しています。
 
④生存者にも厳しい拘留生活と、帰国した119人にも生活の苦労が待っていました。
 
満蒙開拓団の悲劇は残留孤児問題も関連してある程度知っていましたが、かくまでとはとあらためて不明を恥じました。
71年経って体験者が少なくなり風化しつつある今こそ、戦争の悲惨さ・残酷さ伝えることの大切さを痛感しました。
                               
企画展『満州「大兵庫開拓団と高橋村は9月20日まです。
兵士としてではなく、開拓民として村単位で蒙った戦争被害の実態を是非知って欲しいものです。
 
 

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