但馬物語

2025年5月28日 (水)

ユリノキが満開です

日高町にある「植村直己冒険館」の玄関から奥へと続くユリノキが満開です。

冒険館 & ユリノキ並木
P5270266 P5270267

花(チューリップに似た形)
P5270261 P5270262

葉(半纏:はんてんに似た形)
P5270257葉の形から和名「ハンテンボク」、花の形から洋名「チューリップツリー」と呼ばれます。モクレン科の落葉高木です。

2004年の10月20日、台風23号で由良川が氾濫し、北陸旅行から帰る途中の観光バスが水没して、但馬の乗客ら37人が濁流渦巻くバスの屋根で一夜を明かして助かりました。バスが流されるのを防ぐため流れてきた竹竿とバスのカーテンで作った紐で結んだのが、由良川沿いに植えられた街路樹ユリノキでした。この話は童話「バスの屋根の上で」にもなりました。



  

2025年5月25日 (日)

北但大震災 写真集

北但大震災の記録として大正14年に大阪毎日新聞社が発行した「但馬丹後震災画報」が残っています。知人から見せてもらった記事の一部を紹介します。

表紙
Img_20210523_0001 Img_20210523_0002

地蔵湯から見た城崎町市街地 & 豊岡小学校に集まった被災者
Img_20210524_0003_20250525133501 Img_20210524_0004_20250525133501
震源地は城崎町近くの「田結地区」で、城崎温泉、豊岡市街地に被害が集中しています。記事には「・・・・死傷者八百余名、倒壊焼失家屋三千七百、豊岡町城崎町は殆ど焦土と化して全滅し・・・ただに地方的災害であるのみならず、関東大震災に次いで日本が受けた第二の大災害であったと云える。」と書かれています。

日高町は震源地から離れていて大きな被害はなく、我が家の土蔵の壁にひびが入ったと当時10歳だった父が話していました。

 

 

2025年5月24日 (土)

北但大震災 ボランティアの先駆け

今年5月23日で北但大地震100年を迎えました。100前にボランティア活動が行われています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1995の阪神淡路大震災で、住民同士の絆の大切さと今までにない形のボランティア活動が注目され、この年を「ボランティア元年」と呼ぶようになりました。

その先駆けともいえるボランティア活動が当地の記録に残っています。
96年前の1925年(大正14年)5月23日に豊岡や城崎など北但一帯を襲った地震は、多くの家屋が倒壊・焼失し、多数の負傷者や死者が出ました。

旧制豊岡中学校(現豊岡高校)には、但馬各地から一年生から五年生まで、567人が在校していました。
地震直後から寄宿舎生約80名と鉄道不通のため帰宅出来なかった遠距離通学生たちが中心となって倒壊家屋の下敷きになった死傷者の救出や消火、家財の搬出など、通学生も併せてた190人が活躍し、知事から感謝状が贈られたことが資料に残っています。

北但大震災で救命・消火の最前線で活躍した生徒が、その後作文を残しています。

・学校運動場が炊き出し場所になったり、被災者案内が 掲示されたり、阪神大震災と様子が似ています。
・円山川改修工事に来ていた朝鮮人労働者による救援活動に感動し、高く評価しています。
 
(3年前の関東大震災で、「朝鮮人が火をつけた」「暴動をおこした」などの流言が飛び、罪もない人達が、民間の自警団に殺されたことから考えると、地方では人間同士の助け合う心が発揮されています)

鳥取高等農学校(現鳥取大学農学部)の学生たちが、寮生大会で支援を決議し、身近にある農具を持って、鉄道が不通区間は徒歩で支援に駆けつけました。 これは学校に無断で行動したことですが、学校側も不問に付しました。

平成16年10月台風23号により、豊岡市は大水害を蒙りましたが、このときも多くの方々の支援を頂きました。
災害自体は不幸なことですが、人がお互いを思い合うこと、そして助け合うことの大切さを教えてくれますね。

 

 

 

 

 

2025年5月23日 (金)

北但大震災 100年

今日5月23日で北但大地震100年を迎えました。
豊岡市を中心に大きな被害をもたらした北但大震災が起こったのが大正14年5月23日で午前11時10分した。
その後は台風被害はあっても、地震は阪神淡路大震災の震度5でもほとんど被害を受けませんでした。
「天災は忘れた頃にやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)こともあり、予知が全くと言っていいほどできない地震ですが、過去や歴史から学んでおきたいものです。

被災様子がよくわかる写真は 「venex1 さん」のブログをクリックしてどうぞ! → 「絵葉書に見る北但大震災
(上部左端の ← ボタンで元の記事に戻ります)

 



 

2025年3月27日 (木)

星のクライマー歌碑

植村直己冒険館に新たなメモリアルが誕生しました。
約40年前の2月、北米最高峰デナリ(旧マッキンリー)で亡くなった植村直己さんを称え、松任谷由実(ユーミン)さんが作詞した「星のクライマー」の自筆歌碑です。
場所は冒険館のユリノキ並木の中ほど、冒険館の中入り口付近です。
ステンレス製直径1mほどの大きさなので、うっかり見逃すこともあります。

冒険館入り口 & 歌碑
P3250047_20250327075001 P3250049_20250327075001

ユーミン作詞自筆の歌碑 
P3250052  P3250051_20250327075001

  新聞記事(朝日新聞ひょうご版 3月18日)
 20250320-075948
北米アラスカ州にある北米大陸最高峰を当時はマッキンリー(6190m)と呼びました。第25代アメリカ合衆国大統領の名を冠した山です。
その後アラスカ先住民の呼び名を尊重して、アラスカ州政府は「デナリ」として、オバマ大統領も「デナリ」と呼ぶように決めました。

ところがトランプ大統領就任直後、偉大な?大統領名の「マッキンリー」と改名を決めました。併せてメキシコ湾をアメリカ湾と変えました。
新大陸に移り住み戦争や買収で領土を広げ、片っ端から名をつけたアメリカと違って、日本では古来から伝わる名前を大切にしていて、伯耆の名峰大山(だいせん)を「石破山」とすることはありません。  

 

     

2025年2月12日 (水)

2025 植村直己冒険賞に吉田勝次さん

第29回植村冒険賞に吉田勝次さん(58歳)が選ばれ、植村さんの出身校である府中小学校とのオンライン交流がありました。
吉田さんは、日本ケイビング連盟会長で「人類未踏の洞窟体験」活動が評価されました。
洞窟のことを英語で「cave」発音】kéiv【カナ】ケイヴと呼び、日本ケイビング連盟では、日本のケイビングの活性化と洞窟環境の保護のために、"ケイビングガイドの育成"、"洞窟レスキュー体制の確立"、"プロフェッショナルとしての活動"を行っています。
授賞式は6月7日に豊岡市で行われます。

吉田勝次 オフィシャルサイト ← クリック 
社団法人 日本ケイビング連盟 ← クリック

植村さんと言えば、1984年に消息を絶ったのが北米アラスカ州にある北米大陸最高峰マッキンリー(6190m)でした。第25代アメリカ合衆国大統領の名を冠した山です。
その後アラスカ先住民の呼び名を尊重して、アラスカ州政府は「デナリ」として、オバマ大統領も「デナリ」と呼ぶように決めました。

ところがトランプ大統領就任直後、偉大な?大統領名の「マッキンリー」と改名を決めました。併せてメキシコ湾をアメリカ湾と変えました。
この分では4年後に「トランプ山」「トランプ湾」ができるかもしれません。
新大陸に移り住み戦争や買収で領土を広げ、片っ端から名をつけたアメリカと違って、日本では古来から伝わる名前を大切にしていて、伯耆の名峰大山(だいせん)を「石破山」とすることはありません。

 

 

 

            

2024年5月31日 (金)

ユリノキと台風23号

植村直己冒険館の入り口にユリノキが並んで植えられています。別名半纏木(はんてんぼく)、チューリップツリーともいわれます。葉が半纏の形に似て、チューリップのような花を咲かせます。添付の写真をご覧ください。

冒険館の並木道 & ユリノキの花
P5300011 P5300014

半纏に似た葉 & チューリップに似た花
P5300013 P5300005
ユリノキにまつわるお話しがあります。2004年の10月20日、台風23号で由良川が氾濫し、北陸旅行から帰る途中の観光バスが水没して、但馬の乗客ら37人が濁流渦巻くバスの屋根で一夜を明かして助かりました。バスが流されるのを防ぐため流れてきた竹竿と紐で結んだのが、由良川沿いに植えられた街路樹ユリノキでした。この話は童話「バスの屋根の上で」にもなりました。

その後乗客の方々は、乗客が互いに助け合って恐怖、寒さなど極限の状態を乗り越え、37人が誰一人として命を落さず助かった体験を語りつごうと、 学校や地域でこの経験を報告されています。

 

 

2024年2月16日 (金)

北近畿豊岡自動車道延伸(豊岡出石インター)

  豊岡病院5階デイルームからインター付近の工事
   Dsc_0024_20240217074501
 豊岡市戸牧にある豊岡病院に脳梗塞で入院している友人を見舞いました。5階デイルームから見る眺めは2~3年前と違って工事中の豊岡自動車道の「豊岡・出石インター」が見渡せます。

「八鹿氷ノ山インター」から「日高神鍋高原インター」「但馬空港インター」と北方向に開通し、「豊岡出石インター」が、2024年(令和6年)の秋に開通予定です。このICは写真のように豊岡病院に隣接していて、県北部の高度救急医療の拠点である豊岡病院へのアクセスが良くなります。計画では「豊岡北IC(仮称)」まで伸びて、国道178号線と繋がるとされています。

一方鳥取から岩美・浜坂・香住など一東西を結ぶ自動車道が、順次開通しています。丹後では京都縦貫道も整備が進んでいます。

自動車道と言えば有料とのイメージがありますが、この道路は一部区間(遠阪トンネル、普通車320円)を除き、すべて通行無料です。
通行料を徴収して建設費などを出す〇〇公社・公団方式ではなく、直接国費から建設費などを賄っているからだそうです。

遅まきながら丹後、但馬・鳥取と結ぶ日本海側の道路がネットワーク化され、毛細血管が静脈になりつつある感じがします。



 

 

      

2022年1月27日 (木)

承久の乱 雅成親王

以前、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、豊岡市日高町国府地区の「婆焼きまつり」を記事にしました。
承久の乱の後、破れた後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)も但馬国、備前国へ配流され、雅成親王の但馬配流にまつわる史実を起源としているのが、婆焼き伝説です。

豊岡市高屋には宮内庁管理の雅成親王の墓所があります。
Photo_20220127095102 Photo_20220127095101

Photo_20220127095103Photo_20220127095104

後鳥羽天皇皇子

雅成親王墓

一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと

宮内庁

雅成親王のお墓(宮内庁所管)

後鳥羽天皇の第四皇子で、土御門・順徳両天皇の皇弟にあたられ、六条の宮様と申し上げた方であります。
親王二十二歳の承久三年後鳥羽上皇の倒幕の挙(承久の変という)がありましたが、戦い利あらず、ついに上皇方は敗北され、敵側の大将北条泰時により父君上皇は隠岐に、親王は高屋の地に配流となったのであります。
親王は黒木の御所で三十年間灰色の日々を送られていましたが、建長七年(一二五五年)二月十日この地で五十七歳の生涯を終えられたのであります。なお親王の配所であった黒木の御所跡を示す碑が墓所の南前現在高屋厚生年金住宅の横に立てられています。

宮内庁管轄で今も「墓守」が指名され、私の中学3年生の担任M先生(故人)も当地の住人でもあり、その任にあたられたとお聞きしました。

雅成親王の墓所の場所 ← をクリックしてください。




 

 

2022年1月 7日 (金)

鳥追いと七草がゆ(豊作と無病息災を願う)

豊作と無病息災を願う、これが人の願いの原点ですね。

正月の期間を、松の内(まつのうち)と呼び、一般には7日までです。
七日の朝に食べる七種粥(あるいは、七草粥とも)が、松の内の最後の行事で正月飾りを片付けます。(浄土真宗の我が家では門松も注連縄も飾りません)

七草粥のいわれは、本来は無病息災・健康長寿だったのが、正月のご馳走で酷使した胃をいたわり休ませる説が有名です。
と同時に「鳥追い行事」の意味もあるとされます。
子供の頃、父が菜を刻む時、まな板を叩いて大きな音をさせ、「唐土(とうど)の鳥が、日本の国に渡らぬうちに七草そろえ・・・・・と唱えていたのを覚えています。
害鳥を追い、疫病が流行せぬことを願った厄除けの一種でしょう。

香住の長井村出身で島根大学教授でもあった農学者 榎勇氏著の『北但馬 ムラの生活誌 昭和初期の歳事と民俗』に「鳥追い」(1月6日)と「七草」(1月7日)として当時の長井村の様子が記されています。

榎勇氏著 「北但馬 ムラの生活誌」
P1080007この本は544ページに及び、「戦前の農業や農家の生活を実際に体験し、かつ農学の研究者でもあるという稀な経歴をもつ著者が、生まれ育った北但馬(兵庫県)のムラの一年間の農家にまつわる歳事と民俗を綴った貴重書。多数の写真と図版を付す。」と紹介されています。著者は昭和4年生まれ、昭和22年生まれで同じ城崎郡に育った私にとって、農・食・歳事・遊びなど体験したほとんどが詳しく記載されていて勉強になります。

七草粥は有名ですが「鳥追い」は余り知られてないので、Wikipediaで調べてみると・・・
七種は、前日の夜に俎に乗せて囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れる。囃し歌は鳥追い歌に由来するものであり、これは七種粥の行事と、豊作を祈る行事が結び付いたものと考えられている。
歌の歌詞は「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」など地方により多少の違いがある』 と記されています。どうやら前夜に菜を叩いて鳥を追い、翌日粥を食べたようです。

春の七草は「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、これぞ七草」と覚えました。

 

 

  

より以前の記事一覧

2025年6月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

神鍋山野草を愛でる会

伊佐屋三木のblog1

  • 伊佐屋三木のblog1
    2007年4月から2015年5月まで8年間の記録です。 「サイト内検索」にキーワードを入れて検索すると過去記事が見られます。
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

道の駅かんなべ高原